2024年安息日学校ガイド第一期
 「詩篇」

2024年1期1課 詩篇の読み方  
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【日・古代イスラエルの礼拝における詩編】

150篇からなる詩編は、個人礼拝や公の礼拝で使われるために作られました。例えば、神殿の奉献、宗教的な祝祭、行進、巡礼、契約の箱をエルサレムに安置したときなどに用いられました。ヘブライ語聖書では詩編のタイトルが「テヒリーム」(「賛美」の意)となっており、それはこの書巻の主目的が神への賛美であることをあらわしています。しかし、実際に詩篇を読んでみると、歌集というよりも、著者たちの信仰生活を綴った日記のようです。そこには神と共に歩む人が体験するさまざまな感情が、生々しく書かれています。喜びや感謝の心だけではなく、憤りや恐怖、後悔や失望した心によって執筆された詩篇も数多くあります。そして、さまざまな状況の中でどのようにして神に信頼し、畏れる心を持ち、主に希望を持つことができるのかが書かれています。


【月・詩編記者の紹介】


詩篇を書いた著者の1/3は不明で、分かっている限り、最低7人の書き手がいます。そのうちの一人であるダビデ王は、73篇分の詩篇を書きました。また、アサフやコラの子など神殿の音楽家たちによっても、多くの詩が作曲されました。さらに、ソロモンやモーセもいくつかの詩を残しています。聖霊は詩編記者に霊感を与え、神と彼らの信仰共同体への奉仕のために彼らの才能をお用いになりました。ある詩編は苦難に触れ、ある詩編は喜びに焦点を当て、ある詩編は、「救ってください」と神に叫び、そしてある詩篇は神の過分な好意に対して感謝を現わしています。同じ弱さを持った信仰者としての魂の叫びは、現代生きる私たちの気持ちを代弁しているかのようで、心に迫ってきます。

【火・折々の詩編】


詩篇は人生の折々にふれられており、様々な場面で神を礼拝できることを明らかにしています。分類すると、
①神の威厳、創造力をたたえる詩 
②神の豊かな恵みに対する感謝の詩 
③苦難からの救いを叫び求める嘆きの詩 
④正しい生き方のための知恵の詩 
⑤イスラエルの過去を回想し、先祖の過ちを繰り返さず、神を信頼し、神の契約に忠実であることを次世代に教える歴史的詩。
⑥キリストを指し示す王家の詩などから構成されています。

また、詩編には読者の注意を引くためにいくつかの特殊な技法が用いられています。
①並行法…対称的に配置された単語、語句、思想などを組み合わせる手法。例えば、「わがたましいよ、主をほめよ。わがうちなるすべてのものよ、その聖なるみ名をほめよ」(詩篇 103:1、口語訳)という聖句では、「わがたましい」という表現が、並行法で「わがうちなるすべてのもの」と言い替えられ、魂が人の全存在を意味していることがわかります。
修辞表現比喩的表現を用いる手法。例えば、神の隠れ家を「(神の)翼の陰」(詩編 17:8)と描くなど。
メリズム一対の対照的な部分によって全体を表現する手法。例えば、「主よ、わたしを救ってくださる神よ、昼は、助けを求めて叫び、夜も、御前におります」(詩編 88:2)は、昼と夜という対になる言葉を用い、絶えず叫んでいることをあらわしています。
言葉遊びダジャレを用いる手法。例えば、詩編 96:45 では、ヘブライ語の「エロヒーム(神々)」と「エリリーム(偶像)」が言葉遊びとなっており、諸国の民の神々は「偶像」でしかないというメッセージを伝えています。その他に、しばしば「セラ」という単語が出てきますが、これは、短い間奏部分で、一時停止して考えるよう呼びかける目的があります。

【水・霊感による祈り】

詩編記者は、「わたしの王」「わたしの神」と個人的に神に呼びかけ、「耳を傾けてください」「わたしの祈りを聞いてください」「わたしを救ってください」などと神に願っています。これらは明らかに神に祈っている者の表現です。しかしながら、それは単に人の思いや考えが述べられているのではなく、以下のみ言葉にもあるとおり、すべて霊感によって導かれたものです。


「主の霊はわたしのうちに語り主の言葉はわたしの舌の上にある。」サムエル記下232


「同様に、も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」ローマ826


それゆえ、詩篇は神の声と神の民の声が混在しており、それは信者の敬虔な祈りや賛美の形をした神の言葉ということができるでしょう。イエス様もルカ20:4243で、詩編110:1をそのまま引用されています。

【木・詩編の世界】

また、詩編168節では、「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいましわたしは揺らぐことがありません」、詩編462節では「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」と述べられているように、詩編の世界は神が中心であり、常に神を目の前に見つつ、祈りと賛美によって、あらゆる人生経験を神に委ねようとしているのがわかります。そして、最終的に中心である神様を礼拝するようにと導きます。


「すべての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ。」詩編472


 ただ、詩編が書かれた当時の礼拝は、現代の多くの人が理解している礼拝とは基本的に異なっていました。なぜなら、聖書の文化における礼拝は、ごく自然で誰もが認める、共同体全体の生活の中心であったからです。それゆえ、神の民の生活の中で避けがたく起こったことは、良いことも、悪いことも、すべて礼拝の中で表現されました。詩編記者は、神の住まいが天にあると同時に、神がシオンに、つまり神の民の中の聖所に住んでおられることを知っています。神は、同時に遠くにも近くにも、どこにでもおられ、宮におられるとともに(詩編11:4)、隠されても(10:1)、明らかにされてもおられます(41:13〔口語訳41:12)。詩編では、一見したところ互いに矛盾する神のこのような特性が一緒になっているのです。詩編記者は、神の真のありようにおいて、近さと遠さが分けられないことを理解していました(24:7~10)。彼らは、この霊的な緊張の力学を理解していたのです。どんな経験を味わっていたとしても、彼らは神の恵みと存在を認識していたがゆえに、たとえ神がいつ、どのように介入されるとしても、その介入を待つ間、希望を強く持つことができました。


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