2024年安息日学校ガイド第一期
 「詩篇」

024年1期13課 主を待ち望め


【日・待ち望めという呼びかけ】

詩編2714
「主を待ち望め、雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。」

ローマ825
「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」

「主を待ち望め」と聖書は言います。主を待つという概念は、詩編だけでなく、聖書の至るところに見られます。なぜ、主は私たちに待ち望むことを要求されるのでしょうか。それは神には神の時があるからです。それは私達の考えより遥かに高く、素晴らしいものです。私達はその神の時を待つのです。それにより忍耐強いものとされ、信仰がより強く育っていきます。ガイドの著者は「忍耐は私達の最大の義務」だとも言っています。

ガラテヤ55
「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。」

しかし、待つと言っても、ただぼっとしているわけではありません。希望をもって待つのです。切に焦がれるように、実現した日のことを想像し、喜び待つのです。ここに信仰があります。


【月・母の胸にいる幼子の安らぎ】

詩編1311
「主よ、わたしの心は驕(おご)っていません。わたしの目は高くを見ていません。大き過ぎることをわたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。」

詩篇記者は自分に分に過ぎるようなことを求めないと言います。ここに謙遜の秘訣があります。もちろん、信仰によって大きなことを望むのは良いことです。しかし、その場合大切なことは、すべてが神のおかげだと栄光を神に返し、自分に栄光を帰さないことです。

詩編1312
「わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように母の胸にいる幼子のようにします。」

大きなことを求めないならば精神的にも落ち着きます。信仰とは何事かをなすことではなく、ただ神と共にあって神に信頼し神に従って生きることだけだとわかれば、おのずと魂は母の胸にいる幼子のように安らかに落ちくことでしょう。


【火・束ねた穂をもたらす】

詩編1261
「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて、わたしたちは夢を見ている人のようになった」

バビロンの捕囚の民を、主はペルシャ王クロスを通して、国に帰るようにしてくださいました。それはまるで、夢を見ているかのようでした。しかし、まだすべてのものが帰還したわけではありません。このように言っているのは、むしろいまだ捕囚状態にある人達です。あるいは、町は再建され回復されたけれども、民の心や信仰生活は、まだ回復していないということなのかもしれません。いずれにしても、それで4節において、「主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように、わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください」と訴えているのです。ネゲブというのはパレスチナ南部の地域で、そこの川は雨季以外は枯れた状態です。しかし、雨期になると突然水量が増えて、人間が渡る事の出来ないような大河の流れのようになります。そのような回復を与えて下さいと、現実の厳しさを見つめながら祈っているのです。神による回復、すべてが一新するような回復を祈っているのです。


【水・神の安息日の休息の中で待つ】

詩編9225
「【賛歌。歌。安息日に。】いかに楽しいことでしょう。主に感謝をささげることは。…わたしは御手の業を喜び歌います」

安息日をどのように過ごしているでしょうか。詩篇92篇では、安息日に、主に感謝をささげることはいかに楽しいことでしょうと歌っています。私達も安息日には、一週間を振り返り、主に感謝と賛美をささげるものでありたいものです。安息日は創造の記念日ですから、主の御手の業を見つめながら感謝することも大切です。しかし、「愚かな者はそれを知ることなく、無知な者はそれを悟ろうとしません」(詩篇926)。ゆえに、「あなたに敵対する者は、必ず滅び、悪を行う者は皆、散らされて行」(9210)くことになるのです。また、「あなたはわたしの角を野牛のように上げさせ、豊かな油を注ぎかけてくださることでしょう」(詩編9211節)とあるように、安息日の良き日の中で、主は「豊かな油」を注いで下さり、聖別された者として、新たに献身する力が与えられます。


【木・喜びと共に朝を迎える】

詩篇30編6節
「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」

「朝の来ない夜はない」(吉川英治)。どんなにつらく悲しい夜を過ごしたとしても、必ず朝を迎えます。そこに人は希望を感じます。しかし、あまりにも深い悲しみの中を通らされると、もう朝を迎えたくないと思うこともあるかもしれません。だから、ただ朝が来れば良いわけではないのです。詩篇30篇では、「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」と歌われています。重要なことは、主が「喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」ということなのです。朝、希望があるのは主が共にいて下さるからなのです。「イエス様は週の初めの日の朝早く、復活」(マルコ169節)されました。復活されたのは夜ではなく、昼でもなく、朝早くだったのです。それゆえ聖書では、朝は希望のとき、救済のときなのです。


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