2024年安息日学校ガイド第一期 「詩篇」 |
2024年1期12課 終わることのない礼拝
【日・聖所に向かって手を上げる】
詩編134編1~3節
「さあ、主の僕たちよ、こぞって主をたたえよ。夜通し、主の家に立つ人たちよ。聖所に向かって手を上げ、主をたたえよ。主がシオンからあなたを祝福してくださるように。天と地を造られた方が。」
神の民が主をたたえる。これは礼拝の基本です。その結果、主は民を祝福して下さいます。「聖所に向かって手を上げ、主をたたえよ」とありますが、手を上げる行為は主の祝福を求める思いがその中に込められています。下をうつむいて祈る場合は、神の御前に自分の無力さや汚れを自覚し、それを現わしています。
主を礼拝する者たちを、しばしば「主の僕」と呼んでいます。しかし、僕であるにもかかわらず、主の祝福を受ける者たちでもあるのです。そして、「主のもとに来なさい…聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい」(Iペト2:4、5)とあるように、今や聖なる祭司となった神の民は、イエス・キリストに向かって、これまで主がしてくださったあらゆる良いことのゆえに、賛美と感謝をささげるのです。
【月・新しい歌を主に向かって歌え】
詩編33編3節
「新しい歌を主に向かってうたい、美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ」
新しい歌とは、新曲と言う意味というよりも、心新たに歌うという意味合いがあります。たとえば同じ讃美歌を歌うにしても、ただ歌うのと、救われた喜びが沸き上がって讃美するのとでは、讃美の質が異なります。神は私たちのうちに絶えず新しいことをなそうとされます。ゆえに、私たちも絶えず感謝と喜びを新しい歌に込めて主に向かって歌うのです。また新しい歌には終末的希望があり、やがて行く御国においても私たちは新しい歌を歌うことになります。
黙示録5章9節
「そして、彼らは新しい歌をうたった…」。
黙示録14章3節「彼らは、玉座の前、また四つの生き物と長老たちの前で、新しい歌のたぐいをうたった。この歌は、地上から贖われた十四万四千人の者たちのほかは、覚えることができなかった。」
黙示録5章9節において、誰も解くことができなかった七つの封印を解くために、屠られた小羊(イエス・キリスト)が登場した際に新しい歌が歌われました。これは封印されていた神の御計画が始まる、すなわち、終末における神の民の救いがいよいよ始まることへの喜びが、新しい歌となったのです。また天では14万4千人の人たちしか覚えることのできない新しい歌もあるようです。
【火・どのような人が幕屋に宿るのですか】
詩編15編1、2節
「主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り、聖なる山に住むことができるのでしょうか。それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり…」
幕屋に宿り主を礼拝するに相応しい者とは、その行動においても、品性においても、主の御心を反映している者たちです。聖所は聖なる場所であり、祭司を含め、そこにあるすべてのものが聖別されました。ゆえに、清いことは、神の前に出るための必須条件なのです。ヘブライ語の「清い・タミーム」には、完全であり、全体が揃っていて傷がないという概念があります。これは神を求め、神に罪が赦されることのよって回復されます。罪を自覚し、贖われたことへの感謝と讃美と砕かれた心をもって、神の御前で出ることができるのです。
【水・国々に主の栄光を語り伝えよ】
詩編96編2,3 節
「主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。国々に主の栄光を語り伝えよ。諸国の民にその驚くべき御業を」
詩篇96篇では、礼拝の中で、主に向かって歌うこと、主の御名をたたえること、主の恵みと偉大さを語り伝えること、主の神殿に献げ物を持って行くことなどが訴えられています。この中で、福音を伝えることが礼拝行為の中に含まれているのは興味深いところです。福音を宣べ伝えることは、主をたたえることを実体のあるものにし、礼拝を中身のあるものにします。「大いなる主、大いに賛美される主。神々を超えて、最も畏るべき方。諸国の民の神々はすべてむなしい」(詩篇96:4,5)とあるように、神はすべての人々から礼拝されるべきお方です。そもそも人間は神の栄光のために、神をたたえるために造られました。しかし、現実はそうなっていない。そのようなことから福音を述べ伝えることは、礼拝者を獲得する意味でも重要であり、詩篇96篇の中で繰り返し訴えられているわけです。
詩編50編9節
「わたしはお前の家から雄牛を取らず、囲いの中から雄山羊を取ることもしない。」
神は捧げものを受け取らないと言われています。それは捧げものに問題があったわけではなく、捧げる者に問題があったからです。神に背き、心からの悔い改めもなく、形だけの捧げものがささげられたとしも、主はそれを受け取りません。私たちはどうでしょうか。イエス様は、「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る」と言われました。この言葉は、先の間違った礼拝者たちに対してという意味あいもあるのでしょう。主は、「告白を神へのいけにえとしてささげ、いと高き神に満願の献げ物をせよ」(詩編50編14節)と言われました。心から悔い改めて主の元に来るものを、主が拒まれることはありません。
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