2024年安息日学校ガイド第一期 「詩篇」 |
2024年1期2課 「祈りを教えてください」
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【日・祈りに詩編を用いる】
コロサイ3章16節
「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」
パウロは、キリストの言葉が私たちの内に豊かに宿るようにするために、詩篇を用いることを勧めています。詩編を日常生活に取り入れる簡単な方法は、まずは毎日、詩編を読むことです。詩篇は神への祈りの言葉や讃美、願いなどからなっており、読者が置かれている状況によって深く共感したり、反省させられたり、チャレンジを促されたりすることでしょう。ヤコブの手紙5章13節に、「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい」とあるように、今の自分の状況にふさわしい詩を選んで読むのも手です。それと共に、キリストの人格と救いの御業、キリストの働きが私たちにもたらす希望に照らして、詩のメッセージを熟考していきます。詩篇の内容がより深く理解できるようになるはずです。
【月・困ったときの信頼】
私たちは教会否定的な祈りを捧げることは良くない。辛いことや悲しいことがあっても、それを口にしないで、神への感謝と讃美だけが良いのだと考えているかもしれません。時にそれは、本当の気持ちを隠し、何かきれいごとだけを述べているような印象を与えてしまうかもしれません。しかし、詩篇は悲しみや苦しみをそのまま神に吐露していることに気づかされます。たとえば44篇を見てみましょう。
詩編44編24、25節
「主よ、奮い立ってください。なぜ、眠っておられるのですか。永久に我らを突き放しておくことなく目覚めてください。なぜ、御顔を隠しておられるのですか。我らが貧しく、虐げられていることを忘れてしまわれたのですか。」
神から見捨てられてしまったかのような状況に陥り、それに対して「主よ、なぜ眠っておられるのですか」と訴えています。詩篇を礼拝の祈りに導入するなら、このように心の叫びをそのまま隠すことなく、神に向かって祈っても良いのだと分かってきます。:
ところで、しばしば私たちは試練に会うとき、何か罪を犯したからではないかとか、不信仰だったからではないかと、その原因を考えるものです。実際、そういうこともあるかもしれませんが、しかし、ヨブのように正しく歩んでいても、神が試練を許されることもあるのです。
詩篇44篇も、「わたしが依り頼むのは自分の弓ではありません。自分の剣によって勝利を得ようともしていません。我らを敵に勝たせ、我らを憎む者を恥に落とすのは、あなたです。」(詩編44編 7、8節)と、信仰を現わしています。「しかし、あなたは我らを見放されました。我らを辱めに遭わせ、もはや共に出陣なさらず、我らが敵から敗走するままになさったので、我らを憎む者は略奪をほしいままにしたのです。」(詩編44編10、11節)と訴えているのです。つまり、苦難の意味が分からないわけです。
もちろん、神様には人知を超えた御計画があります。しかし、それが私たちには分かりません。分からないのだから、「なぜ」と問いかけるしかないわけです。でも、それで良いのです。それは神を信じているがゆえの問いかけだからです。信じていない者は神に「なぜ」と問うこともないのです。時が来た時、神様は必ず祈りに応えて下さいます。
【火・絶望の詩編】
詩編を用いて祈ることは、礼拝者が自由に祈りを表現できるようにするだけではありません。詩編は、神の基準に従って彼らの経験を指導し、神の臨在に対する希望と安心感をもたらすことによって、礼拝者がその経験を耐えられるようにしてくれます。
詩編22:2(口語訳22:1)で、詩篇記者は「わたしの神よ、わたしの神よ。なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか」と窮状を訴えています。この言葉は、まさに十字架上でイエス様が発せられた言葉と同じです。しかし、そのような苦しみや試練の中にあるにもかかわらず、「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え集会の中であなたを賛美します」(詩編22:23〔口語訳22:22〕)と言うのです。この言葉は、正直なところ、詩編記者が今抱えている葛藤とは一致しないかもしれませんが、それでも神への信仰を表明し、何があっても神を賛美すると宣言しています。詩編を用いて祈ることで、私達は信仰によって先に目を向け、新しい霊的な地平へと導かれていくのです。つまり詩編は、礼拝者の感情や理解を表現させますが、現状にとどまることがなく、どんな状況にあっても神に信頼するようと導くのです。
【水・絶望から希望へ】
詩編13:2〔口語訳13:1〕
「いつまで、主よ、わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか」
詩篇13篇も、主に対する訴えから始まっています。主が私達をお忘れになることはありませんが、試練のただなかで、そのようについ思ってしまうことは誰にでもあるのではないでしょうか。ゆえに、このような訴えに共感を覚えるわけです。しかし、詩篇はこのような訴えだけに終始はしません。そこが肝心なところです。この詩は、私たちが神のあがないの力を信頼することを意図的に選ぶように導き、それによって、私たちの恐れや不安が次第に神の救いに取って代わり、嘆きから賞賛へ、絶望から希望へと変化していくのを私たちは体験し始めるのです。
詩編13編6節
「あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び躍り、主に向かって歌います。「主はわたしに報いてくださった」と。」
私達は詩篇を自分の祈りの言葉として主に祈る場合、単にそれを読むのではなく、聖霊の導きに中で祈っていくことが大切です。そのとき信仰が強まっていくのを感じることでしょう。
【木・どうか我らを立ち帰らせてください】
時には、詩篇の言葉と礼拝者の現在の経験とが、全く異なる場合もあります。仮に、苦難の中にない場合でも、嘆きの詩をもって祈ることは有益です。なぜなら、苦難は正しい人にも悪い人にも起こるということをより強く意識させ、それと共に、すべてを神が支配しておられ、苦境の際にも力と解決策を与えてくださることを確信させてくれるからです。ます。また、苦しむ人への思いやりも教えてくれます。
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