2024年安息日学校ガイド第一期 「詩篇」 |
2024年1期4課 主は聞き、助け出される
【日・あなたには、わたしの骨も隠されてはいない】
詩篇139篇には、人間の力をはるかに超えた神の偉大さが詩的に歌われています。
「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる。」詩篇139:1~4
神は私達が何をしているか、何を考えているか、すべて知っておられます。私達は神の御前に何一つ隠すことができません。しかし、これは私達のことを理解して下さっているということでもあります。誰からも理解されず孤独のうちにあるとしても、神だけは私達を知っていてくださるのです。
「どこに行けばあなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうともあなたはそこにもいまし御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる」詩編139:7
神はどこにでもおられます。私達は神から隠れることができません。しかし、これは私達がどこにいてもすぐそばで守っていて下さるということです。
「わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち、闇も、光も、変わるところがない」詩編139編11節
神は闇の中のことも見ておられます。神は光です。その神の光に照らし出されるとき、すべてが明るみに出されます。誰も神から隠れたり、隠しごとをしたりすることができません。しかし、これは神が闇から抜け出させない私達を光へと救いだして下さるということです。
「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって、驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか、わたしの魂はよく知っている。秘められたところでわたしは造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。」詩編139編13~16節
さらに驚くべきは、その偉大な神の御手によって私達が造られたことです。神の御前には私達の骨一本すら隠されていないのです。
「胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから。あなたの御計らいは、わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。数えようとしても、砂の粒より多く、その果てを極めたと思ってもわたしはなお、あなたの中にいる。」詩編139:16~18
私達がまだ生まれる前から、神の御手には私達一人ひとりの人生のご計画があった。何と驚くべきことでしょう。この世を極めたと思ってもなお、私達は神の御手の中にある。高慢な思いが砕かれます。同時に、限界だと思えるようなときもなお、人は神の可能性にとらえられているということでもあるのです。
【月・神の配慮を確信する】
詩篇記者は、「主にのみ、わたしは望みをおいていた」と言います。なぜなら「主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださ(る)」(詩編40編2節)と知っていたからです。主はただ叫びを聞いてくださるだけではありません。「滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ、わたしの足を岩の上に立たせ、しっかりと歩ませ、わたしの口に新しい歌を、わたしたちの神への賛美を授けてくださった」(詩篇40:3,4)のです。このような経験が詩篇記者の信仰を強め、どのようなときにも希望を失わないでいられる力となっています。
詩篇121篇3節では、その希望の源である主なる神に「どうか、主があなたを助けて足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださるように」と祈っています。「足」の比喩は、しばしば人の人生の旅をあらわし、「よろめかない」とは、神の安全を表しています。つまり、いつも安全な人生を歩むことができるようにと、眠ることなく、いつも見守ってくださいと祈っているわけです。私達も同様に祈っていることでしょう。この祈りに対して、主は「まどろむことなく、眠ることもない」(詩篇121:4)。主は「あなたを見守る方、あなたを覆う陰、あなたの右にいます方」(詩篇121:5)であり、ゆえに、「昼、太陽はあなたを撃つことがなく、夜、月もあなたを撃つことがない」(詩編121:6)と表されています。これは詩篇記者の信仰告白であり、私達も同様の言葉を宣言していくとき、主の守りを確信することができるでしょう。
【火・主は逆境における避け所】
逃げ場のないような大きな困難に直面したとき、どうしたら良いのでしょうか。たとえば、日本では南海トラフ地震がまもなく来ると言われており、それは未曾有の大惨事になることが予想されています。被災することが予想されている地域に住んでいる人たちは、いったいどこに逃げたら良いのでしょうか。多少の備えはできたとしても、予想されている地震の規模から、とても間に合いそうにありません。もはや逃げようがないとあきらめている人も少なくないのではないでしょうか。そんなとき、詩篇は私達に最高の避けどころがあると繰り返し教えているのです。
「主に申し上げよ。『私の避けどころ、砦、私の神、依り頼む方』と」(詩編91:2)
詩篇記者は神は私のさけどころ、より頼む方と言っています。南海トラフのような大きな地震の前に人間はなすすべがなく、逃げ場もありません。しかし、そのとき私たちの主なる神こそが、唯一の逃げ場となると教えているのです。ここに信仰があります。その他にも、「陰」、「翼」「大盾」「小盾」などの表現を用いて、主は私達の避けどころとなることを教えています。
【水・守り主にして救い主】
詩編114編では、出エジプトの出来事が描かれていますが、そこには主が守り主にして救い主であることが描かれています。そして、それに関連する新約聖書のみ言葉が、そこにはさらに大きな霊的意味があったのだと教えています。
たとえば、5節で「どうしたのか、海よ、逃げ去るとは。ヨルダンの流れよ、退くとは」と、自然の力さえ神の御前に屈服し、イスラエルの民が救い出される信じがたい様子が描かれていますが、この驚くべき救いの御業は、コリント一10章1、2節によると、実は、さらに驚くべき永遠の御国への救いのために、まず私達が通るべき水のバプテスマを象徴していたのだと言うのです。
「兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ」
また、出エジプト後、40年もの間、荒野をさまようことになりますが、その間ずっと民たちは飢え渇くことはありませんでした。それは天からマナが降り、岩から水が噴き出したからでした。このことについて、詩篇114篇7,8節では、「地よ、身もだえせよ、主なる方の御前に。ヤコブの神の御前に岩を水のみなぎるところとし、硬い岩を水の溢れる泉とする方の御前に」と表現されていますが、この水を溢れ出させた岩は、コリント一10章4節によると、キリストだったのです。
「皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです」コリント一10章4節
【木・聖所からの助け】
「苦難の日に主があなたに答え、ヤコブの神の御名があなたを高く上げ、聖所から助けを遣わし、シオンからあなたを支えてくださるように」詩編20編2、3節
神は苦難の日に答えてくださいます。どこからその助けが来るのかと言えば、それは聖所、あるいはシオンからと書かれてあります。すなわち、神のお住まい、神のおられるところから助けは来るということです。当然と言えば、当然です。だとすれば、いつもその神のおられるところに身を置くこと、これ以上安全なことはありません。では、現代の神の宮はどこにあるのでしょうか。
「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」コリント一3章16節
神は信じる者たちの心の内におられます。私達一人一人が聖所となっているのです。だから、神を求めてどこかに行く必要はないのです。どこにいようとも、信じて祈っていけば、そこに神はおられ、そこから神の助けは来るのです。
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