2024年安息日学校ガイド第一期 「詩篇」 |
2024年1期5課 主のための歌を異教の地で歌う
【日・災いの降りかかる日】
詩編74編18、19節
「主よ、御心に留めてください、敵が嘲るのを。神を知らぬ民があなたの御名を侮るのを。あなたの鳩の魂を獣に渡さないでください。あなたの貧しい人々の命を。永遠に忘れ去らないでください。」
私達にとって神様があなどられるのは、つらく、悲しいことです。しかし神はなぜか黙っておられる。神の愛と忍耐には驚かされるばかりです。そうこうしているうちに、矛先は神を信じる民に向けられてきます。「鳩の魂」「貧しい人々」は、イスラエルの民を表しています。
詩編74編20~22節
「契約を顧みてください。地の暗い隅々には不法の住みかがひしめいています。どうか、虐げられた人が再び辱められることなく、貧しい人、乏しい人が、御名を賛美することができますように。神よ、立ち上がり、御自分のために争ってください。神を知らぬ者が絶えずあなたを嘲っているのを御心に留めてください。」
虐げられているような状況の中で、神を賛美することは簡単ではありません。詩篇記者は「契約を顧みてください」と訴えます。「イスラエルを祝福してくださるとアブラハム、そしてヤコブと約束したではないですか!もし民を祝福するという約束を守らないとすれば、他の国民は何と言うことでしょう。なお一層、嘲笑うことでしょう」。このような思想の上に立って詩篇記者は訴えているわけです。そして、「立ち上がって、御自分のために争ってください」と訴えます。ただ、神の契約が果たされるためには、民自身にも神との約束を守らなければなりません。それをなおざりにして、神の約束だけを期待することはできません。何よりも重要なのは、神の民を通して、神の栄光があらわされることです。
「神の栄え、キリストの栄光は、神の民の品性の完成に含まれている」(『希望への光』P1029)。
【月・死の門で】
一度も病気をしたことがないという方もいますが、多くの人は大小さまざまな病気を経験します。クリスチャンとて例外ではありません。因果応報という考えは聖書的ではありませんが、しかし、不摂生による病気や、神から離れてしまった神が引き戻すために病気を許されることもあります。
詩編41編4、5節
「主よ、その人が病の床にあるとき、支え、力を失って伏すとき、立ち直らせてください。わたしは申します。「主よ、憐れんでください。あなたに罪を犯したわたしを癒してください。」
詩篇41篇では、罪を犯したために病気になったとの自覚があり、「罪を犯したわたしを癒してください」と祈っています。しかし、罪の結果ではなく、病気に襲われるときもあります。病気の苦しみに加えて、なぜ病気になったのかわからないという精神的な苦しみが伴うので、一層苦しくなります。そのようなときも、ただ祈るほかありません。
詩編88編10節
「苦悩に目は衰え、来る日も来る日も、主よ、あなたを呼び、あなたに向かって手を広げています」
多くの人が経験しているように、病気はその人を神に近づけます。そのことを思えば、病気すらその人に対する神の愛なのだとわかるのです。
【火・神はどこにおられるのか】
詩編42編2~4節
「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よわたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て神の御顔を仰ぐことができるのか。昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う。「お前の神はどこにいる」と。」
かれた谷川に水を求めて慕いあえぐ鹿のように神を求めますが、神の御顔は隠されたままです。一番苦しいときに肝心の神様がおられなく感じる。苦難の中で神が見えなくなることほどつらいことはありません。
「荒れ野のみみずく、廃虚のふくろうのようになった。屋根の上にひとりいる鳥のようにわたしは目覚めている」(詩篇102:7、8)
荒れ野という表現が、神からの孤立感を際立たせています。「屋根の上にひとりいる鳥」は、巣の外、つまり憩いの場の外にいるのです。しかし、そのような状況の中でもできることはただ一つ。「立ち上がってください、主よ。神よ、御手を上げてください。貧しい人を忘れないでください」(詩編10編12節)と祈り続けるしかないのです。そして、ここにすがりつくような祈りと信仰が生まれるのです。
【水・約束は代々に断たれてしまったのか】
詩篇77篇では、苦難の中で詩篇記者は「神を思い続けて呻き、わたしの霊は悩んでなえ果てます」(詩篇77:4)と言っています。「呻く」という言葉(ハマー)は、荒れ狂う水のとどろきを表現するような言葉で、詩編記者の激しい動揺を表しています。眠ることもできない状態です(5節)。「神を思い続け」ながら、いったい何を思い悩むのでしょうか。それは9節の言葉の中にあらわされています。
「主の慈しみは永遠に失われたのであろうか。約束は代々に断たれてしまったのであろうか」
つまり、苦難の中で神から見捨てられてしまったように感じているのです。それが呻
となって表されているのです。詩編記者が切に求めているのは、神から見捨てられてはいないと言う神の誠実さと信頼性の確認でした。そこで、彼はかつて神がなさった業を一つ一つ思い出すのです。
詩編77編12、13節
「わたしは主の御業を思い続け、いにしえに、あなたのなさった奇跡を思い続け、あなたの働きをひとつひとつ口ずさみながらあなたの御業を思い巡らします」
すると、徐々に信仰が取り戻され、主を賛美することができるようになっていきます。
【木・主に従う人が誘惑されないように】
悪人が栄えるのを見て、神の民は理解に苦しむことがあるかもしれません。しかし、私達は彼らをうらやんではならないと詩篇記者はいい、その理由もはっきり述べています。
詩編37編1、2節
「悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな。彼らは草のように瞬く間に枯れる。青草のようにすぐにしおれる」
彼らは確かに、この世において一時の繁栄を生きるかもしれません。しかし、私達が生きるのは永遠のときなのです。
詩編73編17~19節
「ついに、わたしは神の聖所を訪れ、彼らの行く末を見分けた。あなたが滑りやすい道を彼らに対して備え、彼らを迷いに落とされるのを彼らを一瞬のうちに荒廃に落とし、災難によって滅ぼし尽くされるのを」
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