2024年安息日学校ガイド第一期 「詩篇」 |
2024年1期6課 私は立ち上がる
ダビデは多くの敵に取り囲まれる中で、「主よ、わたしの力よ…」(詩編18編2節)と叫びます。自分自身の力に頼って敵と戦うのではなく、主の力に頼って、その主の力が自分の力となって戦うのだという信仰です。そして、実際主が立ち上がられると、「主は天から雷鳴をとどろかせ、いと高き神は御声をあげられ、雹と火の雨が続く。主の矢は飛び交い、稲妻は散乱する」(詩編18編14、15節)とダビデが歌っているような主の驚くべき力があらわされるのです。その結果、ダビデはこういうのです。「敵は力があり、わたしを憎む者は勝ち誇っているが、なお、主はわたしを救い出される。彼らが攻め寄せる災いの日、主はわたしの支えとな」(詩編18編18、19節))ると。ダビデはイスラエルの傑出した王でしたが、詩編のどこにも、自分の戦闘技術を頼りにしたり、自分の力を誇ったりする言葉がありません。それどころか、いつも主がダビデのために戦って下さり、自分を救い出してくださる方として賛美しています。ここが重要なポイントです。
【月・虐げられた人のための裁き】
詩編9編19節
「乏しい人は永遠に忘れられることなく、貧しい人の希望は決して失われない。」
詩編12編6節
「主は言われます。「虐げに苦しむ者と。呻いている貧しい者のために、今、わたしは立ち上がり、彼らがあえぎ望む救いを与えよう。」
神は、貧しい人、乏しい人、虐げられている人、みなしご、やもめ、寡夫、寄留者など、さまざまな弱い立場の人々に対して、特別な配慮と関心を示しておられることを詩篇で繰り返し述べられています。このことは同時に、神は私達にも弱者に対して手を差し伸べるようにと招いておられ、逆に彼らを虐げるようなことを決してならないことを教えています。
申命記15章 11節「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。」
罪の世にあって、弱者が生まれることを防ぐことはでいません。しかし、このことが私達にとって神の愛の中で生きる機会となるのです。主は、ご自分が貧しくなることで貧しい人と一体となりましたが、それはその貧しさによって多くの人が豊かになるためでした(IIコリ8:9)。私達も同様に生きることを求められているのです。
【火・いつまであなたたちは不正に裁くのか】
詩篇82:1~4「神は神聖な会議の中に立ち、神々の間で裁きを行われる。「いつまであなたたちは不正に裁き、神に逆らう者の味方をするのか。弱者や孤児のために裁きを行い、苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。弱い人、貧しい人を救い、神に逆らう者の手から助け出せ。」
詩篇82篇は、自らを神のごとくに弱者を裁くイスラエルの指導者たちを、神ご自身が裁かれる詩です。神が彼らを見ると、不正な裁きが行われ、弱者を救うどころか、逆に苦しめています。どれほど大きな権力を握り、神のように高ぶっていたとしても、やがてはみな同じく、「人間として死ぬ」(詩篇82編7節)のです。上に立つものに対して主が望んでおられるのは、「正しい裁きを行い、弱い人、貧しい人を救い、神に逆らう者の手から助け出」すことです。それが可能な立場にありながら、それをしないならば、神の裁きが下されるときがきます。最終的にはそれは再臨のときのことをいっています。
【水・あなたの憤りを注いでください】
編69編25節「あなたの憤りを彼らに注ぎ激しい怒りで圧倒してください。」
詩篇の中には、このような敵に対して神の怒りを注いでくださいというような、「汝の敵を愛せよ」とは真逆に思われることが書かれていることがあります。しかし、それは個人的な恨みや憎しみではなく、神の正しい裁きや善悪を真剣に考えていたということです。たとえば、詩篇137篇では、差し迫ったバビロンの脅威に対して、神の裁きを求めています。きれいごとでは済まされない、危機的状況の中での叫びなのです。ただ詩編記者は、自分が復讐の主体であるとは言っていません。最後までそれを神のみ手にのみ委ねています。やがて再臨のとき、神の正しい裁きは全地に臨むわけですが、そのとき救われるものたちは、おそらく同じ様な祈りを神にささげているのではないでしょうか。そう祈らざるを得ないほど、悪の力がはびこり、神の民が苦しめられることになるからです。
詩編96編6、9,10節
「御前には栄光と輝きがあり、聖所には力と光輝がある…聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。全地よ、御前におののけ…主は諸国の民を公平に裁かれる」
主の裁きは、聖所と密接に関係しています。多くの詩編は、聖所の御座におられる神が、罪と悪のゆえにこの世を裁こうとしておられる姿を描いています。また、聖所では、救いの計画が明らかにされました。神の正しい裁きとは、救われる者たちにとっては、罪が赦され、清められて正しいものとされる時だからです。
ローマ8章34節
「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」
天の聖所において、今キリストが私達をとりなしておられることが教えられています。旧約時代において、聖所は、とりわけ贖罪日に、裁き主である主が来られることへの期待を抱かせました。同様に、今私達は、天の聖所におられるイエス・キリストが間もなく到来されるという確信を強めるのです(黙11:15~19)。
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