2024年安息日学校ガイド第一期
 「詩篇」

2024年1期7課 あなたの慈しみは 天にまで及び


【日・慈しみはとこしえに】

詩編13612
「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。神の中の神に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」


詩編136編は、驚くべき天地創造の業やイスラエルの歴史における主の恵みと慈しみを感謝せよと26回も繰り返し呼び掛けているのが特徴です。「慈しみ」と訳されている言葉(ヘブライ語のヘセッド)は、「不動の愛」のという意味があります。その永遠に変わることのない神の愛によって、愛され、守られ、導かれていることに対して、私たちはもっと感謝し、讃美しなければならないという気持ちにさせられます。「神の中の神」とは、神は唯一であり、異教徒が信じている神はすべて人間が作り出した偽りであり、何の力もないことを現わしています。

「力強い手と腕を伸ばして導き出した方に感謝せよ。」(詩篇136:12

神の力の有効性と神の慈しみが及ぶ広い範囲を強調しています。主の永続的な慈しみを信じることは、聖書の信仰の核心であり、主をたたえることは、礼拝と祈りの中心です。


【月・私の内に清い心を創造してください】

詩編5134
「神よ、わたしを憐れんでください。御慈しみをもって。深い御憐れみをもって背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い罪から清めてください。」
 

ダビデは自分を憐み、罪をぬぐって、清めて下さいと祈っています。それは、主にそむいた自覚があった(詩篇51:5)からです。その罪意識の重さは、「わたしは咎のうちに産み落とされ、母がわたしを身ごもったときもわたしは罪のうちにあったのです」(詩編517)と告白するほどでした。しかし、ダビデは主は憐み深く、その慈しみにより自分の罪を赦し、清めて下さることを信じていました。

詩編519
「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください。わたしが清くなるように。わたしを洗ってください。雪よりも白くなるように」

ヒソプは出エジプトのとき、鴨居の周りに子羊の血を塗るのに使われました。また、清めの儀式に用いられる植物です。ダビデが求めているのは、単なる個々の罪の赦しではなく、自分という存在そのものが真っ白に清められることでした。

詩編5112
「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」

 神の赦しは、法的な無罪宣告以上であり、それは自己の最も奥深い部分にまで及ぶ深い変化を生み出していきます。ダビデは、「清い心を創造」して下さることを神に求めていますが、「創造」と訳されている「バラー」は、天地創造における神の創造の力を現わす言葉です。神だけが悔い改めた人の心に、根本的で永続的な変化をもたらし、清い心を創造することができるのです。


【火・主よ、あなたが罪を心に留めるなら】

詩篇13034
「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐えられましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです。」

この詩編記者の大きな苦悩は、自分の罪と同胞の罪に関係しています。私たちが犯した罪は、すべて記録されています。もし、主がそのすべての罪に心に留められるなら、耐えられるものは一人もいないことでしょう。しかし、詩篇記者は主が赦しの神であることを知っています。それがために人は主を畏れ敬うのですと言います。真の礼拝は、罪の罰に対する恐怖に基づくのではなく、神の罪の赦し、すなわち神の愛に基づくのです。

詩篇13078
「イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに豊かな贖いも主のもとに。主はイスラエルをすべての罪から贖ってくださる」

詩篇記者は「すべての罪を主が贖ってくださること待ち望め」と語っています。罪が赦されるようにと祈る時、多くの人は罪責感に苦しみながら、また本当に赦されるのだろうかという不安と恐れの中で祈っているかもしれません。ところが、詩篇記者は希望をもって主が贖って下さるのを待ちなさいと語っているのです。その根拠は、主の慈しみの豊かさにあります。「わたしの魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして」(詩編1306節)。朝の来ない夜はないように、それにもまして許されない罪はない。それくらい主の慈しみは信じる者たちに豊かに注がれるのです。



 
【水・威厳と憐れみに満ちた神への賛美】

詩篇113:45
「主はすべての国を超えて高くいまし、主の栄光は天を超えて輝く。わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか

詩編113編は、主の威厳が賛美されています。この世のどんな力も神に対抗できるものはないという信仰の表明です。それにもかかわらず、主はみずから進んで「低く下って天と地を御覧になる」(詩編113:6)になります。それは「弱い者を塵の中から起こし、乏しい者をあくたの中から高く上げ」(詩篇113:7)るため、つまり、主の愛と慈しみのゆえに、自ら低くなられるのです。神の偉大さと憐れみは、イエス・キリストの中に最もよく明らかにされています。キリストは、ちりあくたにすぎない、弱く貧しい人類を天に高く引き上げるために、みずから進んで天から身をかがめ、十字架で亡くなるほど低くされたのです。

 

 【木・主の御計らいを忘れてはならない】

詩編10315
「わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって。聖なる御名をたたえよ。わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け、長らえる限り良いものに満ち足らせ、鷲のような若さを新たにしてくださる」

詩編103編は、主のさまざまな祝福を列挙しています。そしてその祝福を何一つ忘れてはならないと言います。主の祝福を忘れないことによって、私たちの神様に対する愛と信仰はより強固なものとなっていくのです。私たちは主からどんな祝福を受けているのでしょうか。それは「罪の赦し」「病の癒し」「死後の復活」など、主の慈しみと憐みの中で、いつも良いもので満たし、新たなに生まれさせてくださるのです。私たちは主にお返しできるものがあるとすれば、それは主をたたえ、感謝すること。そして主との約束を忘れないで主と共に生きることです。

 


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