2024年安息日学校ガイド第一期
 「詩篇」

2024年1期8課 正しく生きるための知恵

【日・私は仰せを心に納めています】

詩編11912
「いかに幸いなことでしょう。まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。いかに幸いなことでしょう。主の定めを守り、心を尽くしてそれを尋ね求める人は」

聖書は、日々の信仰生活を、義の道を神と共に巡礼する(「歩む」)こととして描いています。神と共に信の道を歩むとは、「主の律法に」(詩編119:1)歩むことによって実現します。「主の律法に」歩むことには、心を尽くして神を尋ね求めることが伴います。(詩篇119:1210)。そのような人生を歩むものは、「いかに幸いなことか」と詩篇記者は語ります。「まったき道を踏()」の「まったき」とは、神に受け入れられる「傷のない」いけにえを表す言葉で、それゆえ、「まったき道を踏()」とは、自分自身を聖なるいけにえとして神にささげることで、罪(神から離れた状態)から離れ、神と共に生きることを意味します。詩篇記者はさらに、「あなたの律法を愛する人には豊かな平和があり、つまずかせるものはありません」(詩編119:165)と言っています。律法に逆らって生きる時、平安がありません。しかし、律法に生きるとき平安が戻ってきます。「つまずき」という比喩は、道徳的な失敗を表現していますが、律法を愛するとき、誘惑から守られるのです。


【月・生涯の日を数えるように教えてください】

 「朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れて行きます」(詩編906節)と言うように、朝、素晴らしいことがあっても、それがずっと続く保証はなく、もしかしたら夕べには悲しみに暮れているかもしれません。人の生涯はあっと言う間に過ぎていきます。その僅かな間でさえ、多くの困難が伴います。詩編9010節に「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります」とある通りです。それゆえ、詩篇記者は「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」(詩編9012節)と祈るのです。「生涯の日を数えることができるように」とは、人生が限られていることを知り、人生のはかなさを自覚して、一日、一日を大切に生きることができるようにと主に求める祈りです。


 【火・主の試み】

 メリバとは、「争い」という意味の地名で、別名マサとも言います。そこは、かつてイスラエル人がモーセに水を求めて不平を言い争った場所です。そのメリバにおいて、詩編818節では、「わたしは苦難の中から呼び求めるあなたを救い、雷鳴に隠れてあなたに答え、メリバの水のほとりであなたを試した」と書かれています。主は民を荒野に導き、水も食料もない砂漠で、主が民の命を守り、支えて下さることを信じられるか試されたのです。このように主は人生の試みを許されることがあります。この試みに対して、イスラエルの民は残念ながら、「しかし、わたしの民はわたしの声を聞かず、イスラエルはわたしを求め」(詩編8112節)ませんでした。詩篇のメリバへの言及は、同じ過ちを繰り返してはならないということと、民は試みに失敗したにもかかわらず、神様は助けに来てくださった、神の恵みの保証を教えています。また、詩編105編では、ヨセフの試みに言及していますが、18節に「主は、人々が彼を卑しめて足枷をはめ、首に鉄の枷をはめることを許された。主の仰せが彼を火で練り清め、御言葉が実現するときまで」と、ヨセフが奴隷として売り飛ばされた試練は、彼を火で練り清めるためであったと書かれています。神様が試練を許されることがあるのは、私達を信仰者として練り清め、不信仰を取り除くためなのです。


【水・悪しき道の欺き】

 詩篇141篇は、内外からの誘惑から守ってくださいという祈りです。3節では「主よ、わたしの口に見張りを置き唇の戸を守ってください」と、言葉で罪を犯すことのないようにと祈り、4節では「わたしの心が悪に傾くのを許さないでください」と、心が誘惑に負けてしまうことのないように祈っています。さらに続けて、「悪事を重ねることのありませんように。彼らの与える好餌にいざなわれませんように」と祈っています。これは、誘惑は一度限りではなく何度も繰り返しやってきては、同じ過ちを何度も犯してしまいやすいことを表しています。そうすると、やがて悪を行う者の好餌を心が食べてしまう、すなわち、彼らの悪行を好ましいものとして受け入れてしまい、誘惑と戦うことを止めてしまうようになるのです。詩編11節に、「いかに幸いなことか。神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず」と書かれていますが、神に逆らう人の行動を共にすることを避けることは、誘惑に合わないための秘訣です。特に、若いころは付き合う人を選ぶことが大切です。

 

【木・正しく生きることへの祝福】

 詩編113節「いかに幸いなことか。神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」

詩篇は、どのような人が幸いな人生を歩むのかということから始まります。それは神に逆らう者の計らいに従って歩まず、主の教えを愛し、正しい道に歩むものです。なぜなら、彼らには必ず神様の祝福が伴うからです。「流れ」と訳されている言葉は、人工的に造られた川です。木は自分で生きる場所を選ぶことはできません。しかし、主の教えに従って歩む者のところに命の水が流れてくるようになるというわけです。これが神の祝福なのです。詩編1281節でも、「いかに幸いなことか。主を畏れ、主の道に歩む人よ」と歌われています。「妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木。食卓を囲む子らは、オリーブの若木」(詩編1283節)とありますが、ぶどうの木やオリーブの木の下に座る家族のだんらんは、平和と繁栄を象徴しています。このような主の平和をもたらす鍵が、「主を畏れ、主の道に歩む」ことなのです。

 


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