2024年安息日学校ガイド第2期
 「大争闘」

2024年2期1課 あらゆる戦いの背後にある戦い

【日・天における戦い】

黙示録127~8節
「さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。」

これらの聖句は善と悪の宇宙的争いを描いており、それは悪の起源を示すものです。サタンとその天使たちはキリストと戦いましたが勝てず、天から追放され、地に投げ落とされたのです。しかし、なぜ天で悪が生まれたのでしょうか。神がサタンを創造されたのでしょうか。

エゼキエル書281315
「お前は神の園であるエデンにいた。あらゆる宝石がお前を包んでいた…それらはお前が創造された日に整えられた。わたしはお前を翼を広げて覆うケルブとして造った…お前が創造された日からお前の歩みは無垢であったが、ついに不正がお前の中に見いだされるようになった」

神様はサタンを創造されたのではありません。ルシファー(明けの明星を指すラテン語で、「光を掲げる者」という意味)と呼ばれ、もともとは美しいケルブ(特別な天使の1人)として創造されたのです。そのあゆみは無垢だったと聖書は記しています。ところが、いつしかルシファーの中に不正が見いだされるようになったのです。いったい何があったというのでしょうか。

エゼキエル2817
「お前の心は美しさのゆえに高慢となり、栄華のゆえに知恵を堕落させた」

イザヤ書141214
「ああ、お前は天から落ちた。明けの明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされた。もろもろの国を倒した者よ。かつて、お前は心に思った。「わたしは天に上り、王座を神の星よりも高く据え、神々の集う北の果ての山に座し、雲の頂に登っていと高き者のようになろう」と。
 

ルシファーの中に芽生えた不正とは、神のようになりたいという高慢な思いでした。これが悪の始まりなのです。こうしてルシファーはサタンと呼ばれるようになりましたが、サタンとは、ヘブライ語で「敵対者」「妨げる者」「訴える者」を意味する言葉です。しかし、なぜ天国において高慢な思いが生まれたのか、全宇宙がこれを理解するために、神はルシファーを直ちに滅ぼすことはなさいませんでした。


【月・ルシファーは欺き、キリストは勝利される】

黙示録124
「竜の尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた」

天で神に反逆したのはサタンだけではありませんでした。天で戦いが起きたとき、天使たちはイエス様に従うか、それともサタンに従うか、決断しなければなりませんでした。そして、驚くべきことに、サタンは3分の1の天使を仲間に引き込むことに成功するのです。善と悪との闘いの舞台が地上に移されたことによって、私達人間も常にサタンの誘惑にさらされています。そして誰もが有無を言わせず、サタンに従うのか、それとも神に従うのか、決断を迫られているのです。愛の神は私達に自由に考え、選択する意志を与えられました。自由な意思によって神様はご自分を愛してほしかったからです。しかし、サタンはそれを利用して、私達一人ひとりの心を揺さぶり、神様から引き離そうとしているのです。


【火・巻き込まれる地球】

サタンが天から地に投げ落とされた結果、善と悪との闘いの舞台が地上に移され、人間がその中に巻き込まれる形になりました。とはいえ、力づくで人間を従わせることはできません。サタンは自分がそうしたように、神への愛と忠誠を示すために与えられた自由意志を、神様に反逆するために用いるように仕向けたのです。つまり、エデンの園の中で唯一禁止されていた善悪を知る知識の木の実を、無理やりにではなく、自分の意志で食べるように、自分の意志で神様に反逆するようにとそそのかしたわけです。たった一人の人から始まった神への反逆、すなわち罪の結果は甚大でした。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくな」(ローマ323節)り、「…死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」(ローマ512節)。アダムとエバが罪の誘惑に勝てなかったように、すべての人が同じように罪の誘惑に勝てないのです。サタンはこの結果に、どれほどほくそ笑んだことでしょう。


【水・愛は方法を見いだす】

ヨハネ一410
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」

アダムとエバは罪を犯した結果、エデンの園から追放されることになりました。この絶望的な状況の中で、主は一つの希望を二人に語ります。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」(創世記315)。彼とはキリストのことであり、キリストはサタンの頭を砕くと預言的に語られたのです。これは悪の根源であるサタンを主が完全に滅ぼす時が来るということです。しかし、キリストもかかとを砕かれます。これは十字架を表しているわけですが、驚くべきは、人間が罪を犯したそのときに、間髪入れず、救いの計画が示されていることです。これはすでに決まっていたことでした。口先だけで神は愛だと言われても私達にはわからなかったことでしょう。しかし、人間が犯した罪を、御子が命を犠牲にして贖って下さることによって、結果的に私達は神の愛の大きさを知ったのです。


【木・私たちの大祭司】

ヘブライ41516
「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」

十字架で私達の身代わりとなって死んでくださった方は、今は天において、大祭司として私達を、父なる神様にとりなして下さっています。だから、神様のもとに近づくことができるわけですが、その際、キリストはわたしたちの弱さに同情できないことが強調されています。「同情する」と訳されている言葉は、「共に苦しむ」という意味があります。私達と共に苦しんで下さるがゆえに、私達の弱さを理解することができるのです。自分の罪や汚れを思うと、とても神様のもとに近づくなどできないと思うかもしれません。しかし、宇宙的視点に立つとき、私達はみな、サタンとの闘いの中に巻き込まれているのです。そのような状況の中では、私達はあまりにも無力であることを、主は理解しくださっているのです。それだけでなく、大祭司なる主は、憐み深く、また恵み深い方です。だから、必要なときには、もっと大胆に恵みの座に近づいてよいのだと教えられているのです。サタンは、神様は恐ろしい方だと信じさせようとしています。そして私達の心を神様から引き離したいのです。この罠に陥ってはなりません。

 


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