2024年安息日学校ガイド第2期
 「大争闘」

2024210課 暴かれた心霊術


【日・心霊術の致命的な結果】

人は死んだらどうなるのか。これは多くの人が知りたいと思ってきた永遠のテーマです。死後の世界にも希望を持ちたいと思うことは自然な心理かもしれませんが、それがために、人は死後もどこかで生き続けるとか、別の存在に生まれ変わるというように考えている人も少なくないようです。悪魔はエバに「善悪の知識を知る木の実を食べても死なない」と嘘をつきました。これと同様の欺瞞により、今もなお悪魔は人間に、たとえ死んで霊魂は生き続ける「霊魂不滅」を信じさせようとしています。心霊術はそのような悪魔の働きの1つで、死んだ人の霊魂は生きており、死者と交信できるかのように思わせます。しかし、神様は民に、「口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる」(18:11)ことを禁じました。キリストは、「…魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタ 10:28)と言われましたが、これは救われなかった人たちがこの地上で生き続けることはなく、最終的に地獄で滅ぼされ、消滅することを教えています。では、救われる人の場合はどうでしょうか。多くのクリスチャンは、死んだらすぐに天国に行けると信じているようです。しかし、「合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し…」(テサロニケ一416)とあるように、死んだらすぐに天国に行くのではなく、キリストが再臨し復活させてくださるまで待たなければなりません。その間、どのような状態となっているのかは神秘ですが、一つはっきりしていることは、「死者はもう何ひとつ知らない」(コヘレト95節)とあるように、この世のことは何もわからなくなるということです。それは眠っているような感じでしょう。ルターも、「死者は、日も年も数えることなく横たわっている。しかし目がさめる時には、ほんの一瞬眠ったか眠らなかったか、というほどにしか思わないであろう」(“Exposition of Solomon's Books Called Ecclesiastes, ”p.152.)と言っています。


【月・旧約聖書における死】 


「死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず、陰府に入れば誰もあなたに感謝をささげません。」詩編6編6節


旧約聖書では、死後、神様を賛美したり感謝をささげたりすることはないと書かれてあります。このことは死後すぐに天国に行くわけではないことを教えているのと同時に、意識や感覚のない状態に置かれることを表しています。「ダビデは先祖と共に眠りにつき、ダビデの町に葬られた」(列王記上210)、「わたしの神、主よ、顧みてわたしに答え、わたしの目に光を与えてください。死の眠りに就くことのないように」(詩編134)など、聖書は死は眠りであると言い、少なくともこの世の労苦から解き放たれて安らかな状態(黙示録1413)にあることを教えています。しかし悪魔は、死後も霊は生き続けていると思わせるため、様々な不思議やしるしを行ってきます。

「多くの者は、愛する肉親や友人の姿をしてもっとも危険な異端の説を唱える悪霊たちに直面するであろう。これらの来訪者たちは、われわれの最も感じやすい同情に訴え、自分の主張を支持するために奇跡を行う。われわれは、死んだ者は何事をも知らない、このように現れる者は悪鬼の霊である、という聖書の真理によって彼らに抵抗する用意がなければならない」(『希望への光』1871ページ、『各時代の大争闘』第34)

しかし、死者はいつまでも眠った状態にあるわけではありません。「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚め、ある者は永遠の生命に入り。ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」(ダニエル122時が来ます。


【火・新約聖書における死】

キリストは、ラザロが亡くなったとき、「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」(ヨハネ1111)と言われ、旧約聖書と同様に、死を眠りと表現しました。なぜかというと、朝目覚めるように復活する時が来るからです。深い死の眠りから覚まして下さるのはキリストです。また、パウロは「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そしてキリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」(コリント一151617)と言っているように、復活は私達の信仰の最大の希望であり、土台となるべきものなのです。


【水・木 終末時代の心霊術(その12)

キリストは、「偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである」(マタイ2424)と言われました。また「不法の者は、サタンの働きによって現れ、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを行い」(テサロニケの信徒二29)と、これらのしるしや不思議な業の背後には、サタンがいることを聖書ははっきりと教えています。サタンは、人間の判断力や理性に訴えるのではなく、人間の感情的側面に訴えてきます。それが効果的であることを知っているからです。「できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとする」キリストが言われた通り、「しるしや不思議な業」は、私達の知らない隠れた世界で行われるばかりではなく、教会の中にも持ち込まれることになります。教会の中で様々な奇跡が起これば、多くのクリスチャンは、それが神から来ていると思い、信じてしまうことでしょう。


「欺瞞の一大ドラマの最後を飾る一幕として、サタンはキリストを装うであろう。教会は、救い主の来臨を教会の望みの完成として期待していると長い間公言してきた。今や大欺瞞者は、キリストがおいでになったように見せかける。」(『希望への光』1903ページ、『各時代の大争闘』第39)

このサタンの欺瞞に騙されない方法は、ただ一つ。み言葉を信じる信仰だけです。サタンはキリストや天使の姿を装って、「しるしと不思議」を行ったとしても、必ずみ言葉と食い違う部分があります。聖書の教えから引き離すためにキリストを装ってやってきたのに、逆に、信徒たちが真理に目覚めてしまったら、元も子もないからです。サタンの欺瞞を見分けることができる唯一の方法が、聖書と照らし合わせることです。どんなに驚くような奇跡が起きたとしても、聖書の教えに少しでも反することがあれば、それは嘘ということになります。

 

 

 

 

 


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