2024年安息日学校ガイド第2期 「大争闘」 |
2024年2期3課 光は暗闇の中で輝く
【日・妥協─サタンの巧妙な戦略】
ヨハネ14章6節
「イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
イエス様は「私は真理である」と言われました。真理とは永遠不変に正しいことです。従ってイエス様の言動は常に正しく、永遠不変です。そして、それは全知全能にして、愛そのものであられる神様の心から生じます。私たちが聖書から学んでいることは、まさにその心理なのです。また、それは知的に蓄えられるだけでなく、真理の御霊という形で、私達の内にとどまるようになります。これは実に不思議なことであり、神の子の印となります。これに対して、神様に逆らうものにはこの真理がありません。
ヨハネ8章44節
「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ」
神様に逆らうものには真理がありません。それは真理を持たない悪魔に従っているからです。『希望への光』1612ページに次ぎのように書かれています。
「サタンは、聖書が人々に、彼の欺瞞を見分け、彼の力に対抗できるようにさせることをよく知っていた。世の救い主でさえ、み言葉によって、彼の攻撃を退けられた。キリストは攻撃されるたびに、永遠の真理の盾を用いて、『......と書いてある』と言われた。サタンのあらゆる誘惑に対し、キリストはみ言葉の知恵と力をもって対抗された」
サタンは私達に聖書を読ませないようにします。自分の欺瞞が見破られてしまうからです。サタンはローマ教会を動かし、数百年にわたって信徒が聖書を読むことも、持つことも禁止しました。教会が聖書を読ませないとはなんと恐ろしいことでしょうか。ゆえに聖書は、「真理を得よ、知恵も諭しも分別も手放すな。」(箴言23:23)と教えているのです。またイエス様は私達のために、「真理によって、彼らを聖なる者として下さい。あなたの御言葉は真理です。」(ヨハネ17:17)と祈られました。私達が真理を知るとき、サタンの欺瞞を見分け、何が正しいことなのかを理解します。そしてそのとき、「真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8:32)のみ言葉が実現するのです。
【月・残忍な狼ども】
初期の教会の戦いは迫害だけでなく、背教、堕落が加わっていきます。聖書を強制的に読ませなくても、間違った解釈へと導いたり、読みたい気持ちを起こさせなくしたりすれば、それで悪魔の目的はかなうのです。むしろその方がより効果的だともいえます。このことをパウロは早くから懸念し、「あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。だから、私が三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい」(使徒言行録20章31節)と言っています。さらにパウロは「不法の秘密はすでに働いています」(テサロニケ二2章7節)と言っていますが、たとえば、太陽神を礼拝する日曜日を、復活を祝うキリスト教の礼拝日(安息日)として徐々に浸透していきました。
【火・御言葉によって守られる】
ヨハネ17章15~17節
「私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです…真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの言葉は真理です。」
イエス様は私達を悪い者から守って下さい。そして、真理のみ言葉によって聖なる者(この世の者と分けられた者)として下さいと祈られました。サタンの惑わしから守られる力が聖書の中にあることがわかります。パウロも「そして今、あなたがたを神とその恵みの言葉とに委ねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に相続にあずからせることができるのです」(使徒20章32節)と言っています。善と悪との大争闘に勝利するための大きな力、武器として聖書が与えられているのです。だから悪魔はそれを読ませないようにといつの世も働くのです。
【水・聖書から離れた人間の論理的思考】
箴言16章25節
「自分にはまっすぐに映る道も終わりは死に至る道ということがある」
悪魔の攻撃は、私達の思考や思いに働きかけ、間違った道へと進ませます。だから、正しい道へと導く光が必要であり、それが聖書なのです。また、どれほど純朴で神を慕う者であっても、「私たちは皆、羊の群れのようにさまよい、それぞれ自らの道に向かって行った」(イザヤ書53章6節)とあるように、純朴だからゆえに騙されやすいとも言えます。悪い人でなくても、み言葉の導きが必要なのです。
【木・心をめぐる戦い】
コリント二4章3、4節
「わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。」
この箇所で「心」と訳されているギリシア語は、「ノエーマ」です。文字どおりには、私たちの認知力や知的能力を意味しています。サタンは人々の心、知的能力に覆いをかけて、福音を分からなくすると言うのです。その意味では、キリストとサタンの戦いは、人の心をめぐる闘いであると言えます。悪魔は福音がわからなくさせるだけでなく、心を暗くしたり、悲しくしたり、あるいは不安にさせたり、このような感情面を左右したり、高慢や自己顕示欲などに訴えたりしてきます。しかし、「まことの光があった。その光は世に来て、すべての人を照らすのである」(ヨハネ1章9節)とあるように、主なるキリストの光の中で、私達は正しい理解力が与えられ、平安と喜びの中を生きることができるようになるのです。
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