2024年安息日学校ガイド第2期 「大争闘」 |
2024年2期5課 困難に立ち向かう信仰
【日・神の言葉のみ】
詩編119編 103、104節
「あなたの仰せを味わえば、わたしの口に蜜よりも甘いことでしょう。あなたの命令から英知を得たわたしはどのような偽りの道をも憎みます。」
宗教改革者たちを目覚めさせたのは聖書であり、同時に彼らに宗教改革への勇気を与え、支えたのも聖書でした。聖書は宗教改革者たちの信仰の基礎であり、彼らの教えの本質でした。
「(み言葉)を受け入れ、自分のものとするとき、品性の力となり、霊感が与えられ、生命を支持する者となる。こういういやしの力を持った者は他にない。これ以外にどんな者も、全身に活力を与え、勇気と信仰を授けることはできない」(『ミニストリー・オブ・ヒーリング』P73、74)。
聖書は自分自身を変えるだけでなく、他の人をも力づけ、正しい信仰を持つ者へと変えていく力でした。そのため、ジョン・ウィクリフは、一般の人にも聖書を読んでもらいたいと英語に翻訳したのでした。当時、それは違法であったため、彼は死刑判決を受けるのですが、そのときウィクリフは、「あなたがたは、だれと戦っていると思っているのか。今にも死にそうな老人とか。否! 真理と戦っているのだ。あなたがたより強く、あなたがたに打ち勝つ真理となのだ」(『希望への光』P1631)と語ったと言われています。
【月・神の言葉を伝える】
「神に感謝します。神は、私たちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、私たちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。」
キリストの働きは一人の人によって完成されるものではありません。多くの忠実な神の民がキリストの勝利の行進に連なり、バトンが引き継がれていくのです。
【火・霊によって啓発される】
ある日、ルターは、大学の図書館で本を調べていた時に、ラテン語の聖書を発見しました。彼は、こうした本を見たことがなく、そうしたものの存在さえ知りませんでした。彼は、福音書や使徒書簡の一部が、公の礼拝の時に朗読されるのを聞き、それが聖書の全部であると思っていました。ところが彼は、このとき初めて、神の言葉の全体を見たのです。畏敬と驚きをもって、彼はその神聖なペ一ジをめくりました。彼は、胸をときときさせなから、「神がこのような本をわたしに下さったなら!」と叫ぶのでした。2人の天使が彼のそばにいて、神のみ座からの光が、真理の宝を彼に理解させました。
ヨハネ16章 13節
「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」
聖書の記者たちに霊感を与えたのと同じ聖霊が、聖書を読む私たちを導いてくださることを宗教改革者たちは理解していました。聖霊に導かれて書かれた言葉なのだから、聖霊によって理解するというのはとても理にかなったことであり、そのために聖霊は天から下ってきたのです。宗教改革者たちを正しい聖書理解へと導いたのは、まさに聖霊でありました。スコットランドの宗教改革者ジョン・ノックスは、聖書解釈に関して誰の言葉を信じたらよいのかと質問するスコットランド女王メアリに、「神の言葉は、それ自体明瞭です。もしどこかに不明瞭なところがあれば、ご自身に矛盾することのない聖霊が、それを他の場所において明らかに説き明かしてくださいます』」(『希望への光』1713ページ、『各時代の大争闘』第14章)と答えたと言われています。
【水・キリストのみ、恵みのみ】
ローマ3章23、24節
「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」
ルターは新約聖書を読みながら、神の慈しみに圧倒されました。そして、当時、教会の指導者たちが教えていた一般的な見解は、救いは部分的に人間の業であり、部分的に神の業であるというものでしたが、ルターは、キリストの十字架での死が全人類にとってすべてであり、十分であることを発見しました。聖書はじゃっきりと「キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」と書かれてあります。私たちはそれを信じ、受け取ればよいのです。なぜ、恵みによって無償で義とされ救われるのでしょうか。それは誰も自分の功績を誇ることのないようにするためです。
エフェソ2章8、9節
「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」
サタンは自らを誇り、神のようになりたいと思いました。ここからすべての罪が始まっています。それゆえ、神は私たちが誰一人誇ることがないように、自分の罪深さを悟るように導かれ、ただ主の恵みによる救いの道を開かれたのです。
【木・従順─信仰の実】
「では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。」
神様の恵みによって救われるのであれば、罪を犯してよいのでしょうか。もちろん、そういうことではありません。私たちが救われるとは、神様と一つとなることであり、自然に神様の御心を生きたいと望むようになります。逆に、罪の中にとどまることに何も問題を感じないとすれば、それは罪の奴隷であり、神から離れた状態にあるからです。そのままの状態が続けば、やがて死に至ると聖書は言っています。
ペトロの手紙二3章18節
「わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。」
ペトロの手紙一2章2節
「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。」
神の恵みにより救われた者は、神の子として成長していきます。成長の歩みをストップさせてしまうことは主の御心ではありません。神の子としての成長とは、み言葉に従うものとなり、愛、喜び、平和などの品性の実を豊かに実らせるようになることです。福音を知ったクリスチャンに対してサタンは、成長など必要ないと思わせてきますが、その欺瞞に騙されてはなりません。
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