2024年安息日学校ガイド第2期 「大争闘」 |
2024年2期7課 希望に突き動かされて
【日・主の再臨の約束】
ヨハネ14章1~3節
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」
イエス様は弟子たちに、天に住まいが用意されている。そこに連れて行くためにまた戻って来ると、再臨の希望を語られました。この再臨の希望は、これまで学んできた迫害の中にあった初代教会のクリスチャンたちや宗教改革者たちを励まし、力づけてきたことはもちろんのこと、いつの時代にあっても、クリスチャンの最大の希望となって今も輝き続けています。
【月・時を予想する】
黙示録1章7節
「見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る。ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。」
キリストがベツレヘムの飼い葉桶の乳飲み子として初めて来られたとき、その到来に気づいた人は、ほとんどいませんでした。しかし、主が二度目に来られるときは、「すべての人の目が」それを見、すべての人の耳が主の再臨のラッパの音を聞きます。従って、すでにキリストは再臨されたという人(間違った宗教)がいたとしても信じてはなりません。私達にとって再臨は大きな希望ですが、再臨の光景を描写している聖書箇所は、「地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ」と表現されています。つまり、多くの人がイエス様を信じることなく再臨の時を迎えてしまうということです。初期のアドベンチストの指導者であったルーサー・ウォーレンは、若い人々によくこう言っていました。「キリストの到来に備える唯一の方法は、準備をし、準備を続けることです」。主の再臨を心から待ち望んでいる私達も、いつ主が戻って来られても良いように、主にお会いする準備をしなければなりません。
【火・ウィリアム・ミラーと聖書】
SDAの歴史を語るうえで、ウィリアム・ミラーを抜きには考えられません。ミラーは一農夫でしたが、飢え乾くように熱心に聖書を研究しました。彼は神学書などを人の考えを頼りにするのではなく、み言葉はみ言葉で理解するという方法を取りました。つまり聖書の中で、同じ言葉や同じ内容の箇所が、それぞれどうのように表現されているのかを比較し、その理解を深めていくというやり方です。「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(ヨハネ16章13節)とイエス様が言われた通り、ミラーは聖霊によって目が開かれ、真理へと導かれていきました。特に、預言に強く心を惹かれました。預言の抽象的な言葉も、聖書そのものによって明らかにされるという原則は変わりません。たとえば、獣は王や国をあらわし(ダニ7:17、23)、風は破壊をあらわし(エレ49:36)、水は民や国々をあらわし(黙17:15)、女は教会をあらわす(エレ6:2、エフェ 5:22~32)という具合です。また、時に関する預言も1日は1年をあらわしている(民14:34、エゼ4:6)ことを理解しました。ウィリアム・ミラーは、これらの聖書解釈の原則を適用したとき、自分が信じていたキリストの再臨の時に関して、驚くべき発見するのです。
【水・ダニエル 8:14 の 2300 日】
ウィリアム・ミラーは、アブラハムの子孫の400年の寄留やイスラエルの70年の捕囚、イスラエルに割り当てられたダニエルの70週(創15:13、民14:34、ダニ9:24)など、時に関する預言も実に正確に成就していることに驚きます。イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1章15節)と言われましたが、すべてのことは神の予定表に沿って動いており、定められた時が満ちればそれは必ず成就する。とするなら、主の再臨に関しても、聖なる予定表を持っておられるに違いないとミラーは結論づけました。そして注目したのが、ダニエル8:14の「日が暮れ、夜の明けること二千三百回に及んで、聖所はあるべき状態に戻る」とのみ言葉でした。この「聖所はあるべき状態に戻る」を、口語訳では「聖所は清められ」ると訳されていますが、これをミラーは、火による大地の清めのことであるという一般的な見解を受け入れ、それはすなわち神の裁き、キリストの再臨であると理解しました。さらに聖書を熱心に研究すると、ダニエル8章と9章の関連性を発見します。9章に入ると、天使が「2300日」に関する預言の意味を理解させるためにダニエルのもとにやってきます。そしてその天使が最初に語った言葉が、「お前の民と聖なる都に対して七十週が定められている」(同9:24)でありました。この「定められている」と訳されている言葉は、文字どおりには、「切り取られた」という意味です。どこから切り取られたのでしょうか。それは明らかに2300日の幻からです。切り取られた70週の預言は、「エルサレム復興と再建についての御言葉が出されてから」(ダニ9:25)始まります。この70週の預言の始まりは、同時に、2300日の預言の始まりともなることをミラーは理解しました。
【木・最も長い預言の時代年表】
エズラ記7章13節
「さて、ここにわたしの命令を明記する。わが国にいるイスラエルの人々、祭司、レビ人でエルサレムに行くことを望む者はだれでも、あなたと共に行ってよい」
ペルシア王アルタクセルクセスは紀元前457年に、ユダヤ人がエルサレムに帰り、国を再建するようにとの勅令を発布しました。この年こそ、2300日/年の預言の始まりとなりました。ここから切り取られることになる70週の預言に関しては、ダニエル書9章25節に、「エルサレム復興と再建についての御言葉が出されてから、油注がれた君の到来まで七週あり、また、六十二週あって…
その六十二週のあと油注がれた者は不当に断たれ…」と書かれてあります。7週と62週を足すと69週で483日となりますが、1日を1年と考える預言の解釈から、紀元前457から数えて483年後の紀元27年にキリストが到来することになりますが、まさにその通りになりました。さらに、ダニエル9章27節では、「彼は一週の間、多くの者と同盟を固め、半週でいけにえと献げ物を廃止する」と続きますが、これは紀元27年から半週(3日半)、すなわち3年半後の紀元31年に、キリストが十字架におかかりになり、十字架の象徴であった「いけにえと献げ物は廃止」されることになるのでした。その際、幕屋の幕が真っ二つに割け、人々に強烈な印象を残しました。そして、さらに3年半後の34年に、最高法院がキリスト教を拒絶することによって、イスラエルに与えられていた猶予期間であった70週(490年)は終わるのでした。
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