2024年安息日学校ガイド第2期 「大争闘」 |
2024年2期8課 聖所からの光
【日・天の聖所】
ダニエル書8章14節(口語訳)の「二千三百の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する」との預言を、ウイリアム・ミラーはキリストの再臨であると考えましたが、期待した通りにはなりませんでした。再臨運動に参加した20万人とも言われる人たちは大失望を経験し、信仰から離れてしまった人も少なくありませんでした。しかし、セブンスデー・アドベンチストはこの苦い経験からスタートするのです。聖書が間違うことはありえない。だとするなら、間違っていたのは自分たちの聖書解釈である。僅か50名余りにまで減ってしまった再臨信徒たちは、もう一度聖書を研究します。その中で気づいたのは、聖所は二つあったという事実でした。一つは地上に、もう一つは天に。
出エジプト記25章8節
「わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。」
主はモーセを通し聖所を造らせ、そこにお住まいになると言われました。何世紀にも渡ってその中で犠牲の動物が捧げられ、祭司がとりなしの業を行ってきました。それらの業はすべてキリストの救済計画を象徴的に表すものに過ぎませんでした。そのためキリストの十字架の死と共に、この地上における聖所の象徴的役割を終え、この世界での見える形では存在しなくなりました。しかし、地上の聖所は天の聖所の型に過ぎず、本物の聖所は天にあったのです.
ヘブライ8章1、2節
「今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。」
ヘブライ人への手紙を読むと、キリストはこの天の聖所で、とりなしの働きをしておられることがわかります。このキリストの天の聖所での働きを、地上の聖所は象徴していたことに、再臨信徒たちは気づきます。そして、二千三百の夕と朝の後、清められて正しい状態に回復する聖所とは、まさにこの天にある聖所のことであったのだという新たな結論に導かれたのでした。
【月・至聖所の中で】
ユダヤ歴の7番目の月の10日、大祭司が至聖所に入って民のすべての罪を贖いました。これを大贖罪日(ヘブライ語でヨム・キプール)と言います。この贖罪日には、日常の活動はすべて中止され、誰もが断食しました。大祭司が彼らのために至聖所へ入り、神のご臨在の前にある間、人々は自分の心を吟味しました。彼らは謙虚に、心からの告白をもって神を尋ね求めました。贖罪日に「身を悩ま(さ)」ない者は「断たれ」、もはや選民の一員ではなくなってしまうのでした(レビ23:27、29、口語訳)。大祭司は主の雄山羊の血を至聖所に持ち込み、それを贖いの座(契約の箱の蓋の部分)に振りかけたのち、雄牛の血と雄山羊の血の一部を天幕の庭にある祭壇の角及び祭壇の上にもつけ、聖所全体を完全に清めました。次に、大祭司はサタンを象徴するアザゼル(ヘブライ語のアザゼルは「やぎ」を意味する「エーズ」(עֵז)と、「立ち去る、消え失せる」を意味する「アーザル」(אָזַל)の複合語)の雄山羊の頭に両手を置き、イスラエルの罪を告白しました。これにより民の罪は聖所からアザゼルの雄山羊に移され、すべての罪の元凶がサタンにあることを明らかにされました。その後、アザゼルの雄山羊は荒れ野の奥深くへ追いやられ、息絶えました。さて、この大贖罪日において行われたことも、天の聖所において行われることの象徴でした。キリストは昇天された後、天の聖所において、まず第一の部屋である聖所でとりなしの業を、そして2300日の終わりである1844年より、大贖罪日で象徴された、聖所が清められ正しい状態に回復させるための業が開始されたのです。
【火・裁きの時が来た】
ダニエル書7章9、10節
「なお見ていると、王座が据えられ「日の老いたる者」がそこに座した。その衣は雪のように白く、その白髪は清らかな羊の毛のようであった。その王座は燃える炎、その車輪は燃える火、その前から火の川が流れ出ていた。幾千人が御前に仕え、幾万人が御前に立った。裁き主は席に着き巻物が繰り広げられた。」
裁きは、聖書全体を通じて重要な主題です。「神は、善をも悪をも一切の業を、隠れたこともすべて裁きの座に引き出され」(コヘ12:14)ます。そして、「神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい。」(黙示録14章7節)と聖書は時が来たことを告げています。このことはキリストが天の至聖所で行う業と密接な関係があり、私達はそれを再臨前審判(調査審判)と呼んできました。
「調査の働きが終わり、各時代においてキリストに従う者であると称してきた人々の調査と決定がなされたとき、その時初めて、恩恵期間が終わり、恵みの扉が閉じられる。このように、『用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやに入り、そして戸が閉められた』という短い1節の中に、救い主の最後の務めが終わって、人間の救いの大事業が完成されるときまでが示されている」(『希望への光』1802、1803ページ、『各時代の大争闘』第24章)。
黙示録22章11節に「不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ」と、終末時代に人々は、良い者と悪い者とに2極化していくと預言されています。イエス様は再臨のとき、人々は右と左に、羊と山羊に分けられると表現されましたが、そのことが社会の中で、如実に表れてくるということでしょう。これは聖霊が神を信じる者たちにのみ注がれるようになるからです。社会全体がいらいらし、どこか暴力的になってきているのを多くの人が感じているのではないでしょうか。これは偶然ではないのです。そしてそれを神は見ておられる。それが神の裁きの理由となっていくのです。大贖罪日に民たちは身を悩まし、罪を吟味し、真剣に悔い改めなければ断たれると言われたように、私達もキリストが至聖所でとりなしの働きをしてくださっている間に、自分自身を深く見つめ、神との正しい関係に常にいることを追い求めなければなりません。
【水・至聖所の良い知らせ】
ヘブライ4章16節
「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」
調査審判は私たちを少し不安にさせるかもしれません。しかし、救い主なるキリストは自らの命をもって私たちを贖い、同時に大祭司として、天の聖所で私たちの罪を除去し、清めてくださいます。それゆえ、私たちは大胆に恵みの座に近づくことができるのです。これを感謝と喜びをもって信じるのが信仰です。ところで、神の恵みを強調すると、神の律法が弱められる傾向があります。しかし、神の恵みと律法はどちらか一方を否定するものではありません。ヨハネは黙示録で「天にある神の神殿が開かれて、その神殿の中にある契約の箱が見」(黙示録11:19)ました。神の律法は永遠です。神の恵みの中に生きる者たちに対して、主は「わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(へブル8:10)と言われます。私たちの思いは主なる神の思いと一つとなるのです。それは喜びであり、私たちが神の民となったしるしとなります。
【木・イエス─裁きにおける私たちの弁護者】
ヘブライ10章11~14節
「すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。」
地上の聖所における祭司の奉仕と、天の聖所におけるキリストの奉仕との間にはいくつかの違いもあります。それは祭司はいけにえを毎日献げなければなりませんでしたが、キリストはただ一度だけささげられました。また、祭司がささげるいけにえは民の罪を取り去ることはできませんでしたが、キリストはご自身をいけにえとしてささげられ、それは罪を完全に除去し、信じる者たちを完全な者とすることができました。それゆえ、キリストがその一度のとりなしの業を終えられたら、至聖所を出て、地上に戻ってこられます。これが再臨です。
「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」(ヘブ9:28)。
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