2024年安息日学校ガイド第2期
 「大争闘」

2024年2期2課 中心的な問題─愛か利己心か

 
【日・傷心の救い主】

「言〔イエス〕は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(ヨハネ1:11)と書かれています。民から拒まれることを承知の上で、イエス様は人として地上に来られました。一体どのようなお気持ちだったのでしょうか。エルサレムに近づき都が見えたとき、イエス様はその都のために泣いて、「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」(マタイ2337節)と言われました。イエス様が流された涙の中に、そのお気持ちのすべてが表されています。イエス様は心を痛め、悲しまれました。そして、神の保護を自ら拒んだ結果、紀元70年にローマの将軍ティトゥスが軍隊を率いてエルサレムに攻め込んだとき、男も女も子どもも虐殺されました。それはサタンの仕業ですが、神は民を助けるために介入することはなかったのです。


【月・摂理によって守られたクリスチャン】

イスラエルは神から見捨てられたかのようでしたが、主は民を完全に見捨てられたわけではありませんでした。弟子たちが世の終わりの前兆について主に尋ねたとき、イエス様は、「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら―読者は悟れ―そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない」(マタイ24:1518)と、前もってローマ軍が攻め込んで来たならば逃げるようにと教えられていたのです。イエス様がこのように語られてからおよそ40年後、ローマ軍はユダヤ人の反乱軍が66年以来立て籠もっていたエルサレムを包囲し、ついに神殿も含めて陥落させます。この戦いによって100万人以上のユダヤ人が死に、10万人近くが捕虜となったと言われていますが、はじめローマ軍はエルサレム城外を取り囲み、兵糧攻めのような形でじわじわと追い込んでいきました。ところがそのさなかに、ローマ帝国内で問題が発生し、そのために一時撤退を余儀なくされるのです。多くのユダヤ人たちはやはり自分たちには神がついているのだと大喜びでした。しかし、このときイエス様の言葉を覚えていたクリスチャンたちは一斉にエルサレムから逃げたのです。その後、撤退したローマ軍が戻ってきて、エルサレムは完全に崩壊するのです。ティトゥス将軍は、「自分たちの神に見捨てられた民を征服しても、何も得るものはない」として、勝利の花冠を受け取るのを拒否したと言われています。主の預言の言葉を信じ、その通りにしたものだけが救われたこの出来事は、終末時代に生きる私達にとって大きな教訓なのです。ところで、そのとき私達はどこに逃げたら良いのでしょうか。詩編462節「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」とあるように、物理的な避難以上に重要なことは、主の懐の中に逃げる(いつも主と共に生きている)という霊的状態です。

ただ、「あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」(黙示録210節)とも言われています。迫害があるということです。それは悪魔の試みであるとも書かれています。しかし主は恐れてはならない。死に至るまで忠実であれと言われます。


「その持ち場で倒れたときにも、やむことはなかった。敗北によって彼らは勝利した。神の働き人たちは殺されたが、神の働きは着実に前進した」(『希望への光』1607ページ)


「敗北によって彼らは勝利した」。サタンは信仰者を神から引き離そうとしますが、殉教することになったとしても主を拒むことをしないことによって彼らは勝利し、それによって主は栄光をお受けになるのです。


【火・迫害の中での忠実さ】

初代教会は脅迫、投獄、迫害、そして死に直面しながらも、聖霊の力によって、復活されたキリストを勇敢に宣べ伝えました。こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリアの各地方に増え広がっていったのです。彼らの働きには神の力が伴い、奇跡が次々に置きました。彼らの勝利の秘訣は何だったのでしょうか。その一つは聖霊でした。主は昇天される前、弟子たちに、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1:8)と言われました。これは旧約の預言者ヨエルも預言していたことでしたが、ついにこの預言が実現するときが来るとイエス様は言われたわけです。

ヨエル書312
「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ」

使徒言行録2章を見ると、聖霊を求めて弟子たちが10日間熱心に祈っていると、突如、天から舌のような形をした聖霊の火が下ってきたことが記録されています。そしてその日のうちに実に3000人もの人たちが救われたと記録されているのです。その後も、「あなたは聖霊を受けましたか」と尋ねていく光景が記されており、聖霊を受けることがいかに大切なのか、初代教会の人達は理解していったのです。


【水・地域社会への配慮】

使徒言行録24446
「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」

新約聖書のキリスト教は、クリスチャン同士の愛と地域社会に対する愛によって特徴づけられていました。初代教会が成長したのは、教会員が福音を宣べ伝えただけでなく、福音を生きたからです。無私の愛と人間の必要を満たすことへの献身が、聖霊の力によって福音を伝えることと結びつき、教会初期の数世紀の間にこれほど大きな影響を世に与えたのでした。大争闘の中で、悪魔は人間の中にある神のかたちを損なおうとしています。それゆえ福音の目的は、人類の中に神のかたちを回復することなのです。


【木・愛の遺産】

ヨハネ1335
「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

愛は、最初の数世紀におけるクリスチャン共同体の規範でした。教父テルトゥリアヌスは、こう主張しています。「多くの人が私たちに烙印を押すのは、主として、非常に高貴な愛の行為のためである。彼らは言う。『見よ、彼ら〔クリスチャン〕がいかに愛し合っているかを』と」(S・テルウォール訳『テルトゥリアヌスの護教論』39節、英文)


イエス様は互いに愛することがイエス様の弟子の証明であると言われました。イエス様が私達に残して下さったものの中で、愛は最も大きな遺産です。聖霊によって神の愛がうちに宿るとき、それは自然な形で表に出てくるようになります。周りの人がその愛に触れるとき、彼らは神の愛を知るようになるのです。悪魔はこの愛に打ち勝つことはできません。

 


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