2024年安息日学校ガイド第3期 「マルコによる福音書」 |
2024年3期1課 福音の初め
【日・失敗した宣教師】
使徒言行録12章12節「そうと分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。」
使徒言行録12章に、ヘロデ王の迫害によって獄に捕らえられていたペテロが、天使による奇跡的救出の後、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行ったと記されています。そこでは大勢の人が集まって祈っていました。このマルコは、ペトロの通訳をし、ペトロから聞いたことをまとめて最初の福音書(マルコ福音書)を記した人物だと考えられており、この時はまだ若者でした。使徒言行録13章に入ると、西暦46年頃から始まったサウロとバルナバの第一次宣教旅行について記されていますが、5節を見ると、「二人はヨハネ(マルコ)を助手として連れていた」とマルコについて言及されています。しかし、13節を見ると、「ヨハネ(マルコ)は一行と別れてエルサレムに帰ってしまった」と書かれてあります。マルコは伝道の困難、不安と落胆にくじけてしまって、主の働きに全身全霊を打ち込んで献身するという彼の目的がぐらついてしまったようです。彼は困難に慣れていなかったので、道中の危険と窮乏に気力を失ってしまったのでしょう。(『希望への光』1419ページ、『患難から栄光へ』第17章参照)。
【月・やり直しの機会】
使徒言行録15章36節から、パウロの2回目の宣教旅行について記されていますが、このときいつも行動を共にしてきたバルナバとたもとを分かつことになります。その原因となったのがマルコでした。バルナバはマルコも連れて行きたいと思いますが、パウロは「自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は、連れて行くべきでないと考えた」(使徒15:38)ようです。その結果、バルナバはマルコを連れてキプロス島へ向かい、一方、パウロはシラスを選んで出発することになります。ところが、テモテへの手紙二4章11節を見ると、パウロはテモテに、「ルカだけがわたしのところにいます。マルコを連れて来てください。彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです」と頼んでおり、再びマルコを共労者として評価していることがわかります。この短い一言の中に、苦い挫折を経験しながらも、やがてそれを乗り越え、成長していくマルコの姿を見ることができます。時は西暦60年代初頭、苦い経験から15~20年ほどの時が経過していたと思われます。その陰には、バルナバの忍耐強い関わりと、やさしさがあったのは間違いありません。
【火・使者】
マルコ1章1~3節「神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
マルコによる福音書は、イザヤ書40章3節の「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」を引用して、福音の始まりについて述べていますが、このイザヤ書からの引用は、出エジプト記23:20やマラキ3:1の思想も含まれていることがわかります。そこには次にように記されています。
「見よ、わたしはあなたの前に使いを遣わして、あなたを道で守らせ、わたしの備えた場所に導かせる。」出エジプト記23:20
「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者。見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる」マラキ3:1
これら三つの聖句の共通点は、みな主の十字架への旅のその始まりについて述べていることです。福音の初め、それはバプテスマのヨハネの登場から始まります。彼は主が送られた使者であり、イエス様の旅の道を整えるためにやってきます。バプテスマのヨハネが、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝え」(マルコ1:4)ると、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(ヨハネ1:5)と書いてあり、その影響がいかに大きかったかがわかります。
【水・イエスのバプテスマ】
マルコ1章9~11節「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。」
イエス様はヨハネからバプテスマをお受けになると、天が裂けて“霊”が鳩のように降って来て、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたと記されています。何と厳粛な光景でしょうか。この後、40日の断食とサタンの誘惑を受けるために聖霊に送り出されます。アダムが受けたサタンの誘惑に、イエス様は勝利しなければならなかったからです。ところで、マルコによる福音書の冒頭において、イエス様の神性と人性の両方を備えられた人物として強調的に描かれています。これは、キリストが私たちの主、救い主、神であると同時に、人間でもあり、私たちの兄弟、私たちの模範でもあるという驚くべき現実を示しています。
【木・イエスによる福音書】
マルコは、イエス様の単純かつ直接的なメッセージを、「『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」(マルコ1章15節)と要約しています。このメッセージは、①時の預言…「時は満ちた」②契約の約束…「神の国は近づいた」③弟子への召し…「悔い改めて福音を信じなさい」の三つの部分に分けることができます。「時は満ちた」とは、ある定められた時がついに来たという意味です。これはダニエル9:24~27の「70週間の預言」の成就となります。その預言では、エルサレムの復興命令が出された紀元前457年から69週後(1日を1年とする預言のルールに従うと483年後)のAD27年に、イエス様が宣教を開始されることになっていました(「油注がれた君(イエス様)の到来まで七週あり、また、六十二週あって」(ダニエル書9章 25節参照)。また、「神の国(支配・領域という意味)は近づいた」とは、サタンが支配しているこの世界に、神のご支配の時が近づいたということです。「来た」ではなく、あえて「近づいた」と表現されているのは、私達の方からも神のご支配の中に一歩足を踏み入れる必要があるからです。そのことが次の「悔い改めて福音を信じなさい」というメッセージの中に込められています。悔い改めるとは、神のもとに立ち返るという意味です。そして素晴らしい福音を信じるようにと招かれているのです。
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