2024年安息日学校ガイド第3期 「マルコによる福音書」 |
2024年3期13課 復活された主
【日・復活を喜ぶ】
イエス様が十字架にかけられて亡くなったのは、金曜日の午後遅くでした。安息日に入る前に、イエス様のご遺体は素早く墓に納められました。そして安息日の間、主は墓の中で休まれ、弟子たちもみな安息日に休んだのでした。
「婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ」(ルカ23:56)
イエス様が亡くなってしまうという深い悲しみの中で、しかし、彼らは安息日を守ったのです。そして、「安息日が終わると(土曜日の日没後)、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエス様に油を塗りに行くために香料を買い、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った」(マルコ16:1,2)のでした。ところが、墓に行ってみるとイエス様のご遺体は墓の中にはありませんでした。かねてから言われていた通り、イエス様は復活されたのでした。それは日曜日の朝のことでした。このことから、やがて第一日曜日を神聖視するようになり、第七日土曜日にとって代わるようになっていきますが、第一日曜日を神聖視するような聖句は一つもありません。
【月・石は転がしてあった】
復活の物語は各福音書に登場し、イエス様の「死」「葬り」「復活」「現れ」という四つの概念が繰り返し語られます。どれもが重要なことであり、一連の流れとなっています。この4つの事柄について、コリント15章でパウロも語っていますが、興味深いのは、最後の復活後に弟子たちの前に現れたことに関して、「五百人以上もの兄弟たちに同時に現れた」(第一コリント15:6)と具体的な数字をあげて伝えていることです。
死と葬りに関しては、安息日に入る前のことでした。そして、安息日を挟んで、復活と現れが続くのですが、それに先立ち、興味深いエピソードが登場します。その日、イエス様のお体に香油を塗るために三人の婦人たちが墓に向かったのですが、一つの心配がありました。それは墓の入り口においてある大きな石を、どうやって動かそうかということでした。しかし、墓に行ってみると、石は既にわきへ転がしてあったのです。そして、墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っており、イエス様はもうここにはおられない。ガリラヤで会えると伝えたのでした。それは天から遣わされた天使だったのでした。
【火・墓での女たち】
このイエス様での墓での出来事に、婦人たちは震えあがりました。恐れる気持ちは理解できます。しかし、問題は、『わたしは再びあなたがたと会うであろう』と言われたイエス様のみ言葉を覚えていなかった(ヨハネ16:22)」ことです。私達もイエス様と再会できるという信仰をしっかり持っていないと、恐れに飲み込まれてしまうことがあるのではないでしょうか。
【水・マリアたちの前にあらわれる】
復活したイエス様に最初にお会いしたのは、イエス様のお体に香油を塗りに行った婦人たちでした。マグダラのマリアのケースでは、まず墓が空っぽであることを一目散に、ペテロとヨハネに伝えます。二人はすぐに墓にかけつけ、確かに墓の中にイエス様のご遺体がないことを確かめます。しかし、復活されたとは思っていません。その後、マリアだけ残って墓の外で泣いていると、墓の中に二人の天使がいるのを気づきます。天使は、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と尋ねます。「わたしの主が取り去られました」とマリアは答えます。そして背後にもう一人、人の気配を感じて振り向くと、そこにイエス様が立っておられたのです。最初は悲しみのあまり、それはイエス様だとはわかりませんでした。すると、イエス様が「マリア」と呼ばれます。その瞬間、マリアはそれがイエス様だとわかり、「先生」といって抱き着いたのでした(ヨハネ20章参照)。他の二人の婦人のケースでは、天使から「イエス様とガリラヤで会える」と告げられた後、弟子たちにそれを伝えに行く途中、「イエス様が行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏しました(マタイ28:9)。おそらく、マグダラのマリアと他の二人の婦人は最初一緒に墓まで行きましたが、天使に遭遇した後、別行動していると思われます。次に、エマオへの道の途上で二人の弟子に、別の姿でイエス様は現れます。マリアたちが言っていたことは本当だったと、すぐに他の弟子たちに伝えるのですが、彼らは信じることができませんでした。そして、ついに弟子たち全員の前にイエス様は現れます。その際、イエス様は、彼らの不信仰とかたくなな心をおとがめになります。
【木・全世界に行って】
イエス様が復活されたことを信じられない弟子たちの前にイエス様は現れ、その不信仰を叱責された後、しかし、続けて、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)と使命を与えられたのでした。イエス様が選ばれ、用いられる人物とは、初めから完璧な信仰を持っているわけではないことがわかります。不信仰になったり、失敗したりを繰り返しながら成長していくのです。このことは、現代の教会でも同様です。自分の弱さを自覚している人は、謙遜にさせられます。互いに批判し合うことを避け、弱さを認め合い、共に主を見上げるものでありたいと思います。
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