2024年安息日学校ガイド第3期 「マルコによる福音書」 |
2024年3期2課 イエスの宣教活動の1日
【日・「わたしについて来なさい」】
マルコ1:16~18「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。」
マルコ1章16節からイエス様が弟子を召し出される場面が描写されています。シモン・ペテロと兄弟アンデレ、ベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ。彼らはみな漁師でした。イエス様は彼らに、「ついて来なさい」と呼びかけられました。それは「私の弟子になりなさい」ということです。彼らはすぐに網を捨てて、その召しに応じます。網を捨ててとは、仕事を捨てる、すなわちこれまでの生活や生き方を捨ててということです。そのような通常大きな決断が伴う事柄に対して、彼らはまるで何も考えていないかのように、すぐに従うのです。
「キリストは御心にかなう人々に「私についてきなさい」と仰せになることができ、そう言われた者は立って彼に従った。彼のみ声が発せられると、この世の魅力は打ち破られ、貪欲と野心的な精神は彼らの心から逃げ去った。こうして人々は自由の身となり、救い主に従うために立ち上がった。」生活を豊かにP257
【月・忘れがたい礼拝】
マルコ1:21,22「一行はカファルナウムに着いた。イエスは安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」
ある安息日、イエス様は会堂に入り、そこで教え始められると、人々はその教えに非常に驚きます。それは律法学者たちとは違う権威を感じとったからです。その日の礼拝は、彼らにとって一生忘れがたい経験となったことでしょう。このときある事件が起きます。それは悪霊に取りつかれた男が突然、「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と言って騒ぎ出したのです。悪霊は、人の姿をとって地上に来られた神の御子がわかっていました。悪霊は「正体は分かっている。神の聖者だ」と叫びます。周囲にいた人たちは、この言葉をどのように受け取ったでしょうか。言っていることは間違っていません。しかし、イエス様は「黙れ。この人から出て行け」(マルコ1:25)とお叱りになるのです。悪霊に自由に話させてならないことがわかります。しかし、それ以上に人が悪霊に支配されている状況に対して、イエス様は憤られたのではないでしょうか。イエス様が悪霊をしかりつけると、大声を上げてその男から出ていったのでした。この一連の出来事にそこにいた人々は、「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」(マルコ1章27節)ではないかと驚き、論じ合ったのでした。
【火・安息日のさらなる宣教活動】
マルコ1:30、31「シモンの姑が熱を出して寝ていたので、人々は早速彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き手を取って起こされると、熱は去り彼女は一同をもてなした。」
会堂での礼拝のあと、ペトロの家に行くと、しゅうとめが熱を出して寝ていました。するとイエス様はそばにいき、手を取って起こされると、なんと熱は去り、癒されてしまったのです。この癒しの物語は、単なる奇跡以上の意味がありました。一家の大黒柱であったペテロが突然仕事を止め、イエスに従ったわけですから、家族はどれほど驚いたことでしょう。これからの生活を心配する気持ちもあったのではないでしょうか。そのような状況の中で、イエス様はまずペテロの家にやって来られ、しゅうとめの病を癒されたのです。そこには、「恐れることはない。私を信じなさい」というメッセージが込められていたのではないでしょうか。また、「夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来ました」(マルコ1章32節)。これは安息日が終わるまで待っていたということです。イエス様は最後の病人が治るまで働きをやめられませんでした。群衆が立ち去り、シモンの家が静けさに包まれたのは夜遅くになってからでした。長い騒ぎの1日が過ぎ去って、イエスは休まれました。
【水・イエスの宣教活動の秘密】
マルコ1章35節「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」
昨晩は遅くまで大勢の人達を助けておられたイエス様は、朝早くまだ暗いうちに起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈られました。イエス様の行動は常に祈りを土台としていました。「祈る」という動詞は未完了形が使われており、イエス様の祈りは終わっておらず、祈り続けておられたことを示しています。また、マルコはイエス様が起きられたのがいかに早かったかを強調しており、それはイエス様の祈りの時間が長かったことを示唆しています。ルカ6章12節には「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」と書かれており、一睡もせずに祈られたこともあったようです。それだけイエス様の日々の働き、日々の生活において、祈りを必要としていたということです。私達はなおさらではないでしょうか。
【木・秘密を守れますか】
マルコ1章40節から重い皮膚病を患っている人をイエス様が癒される場面が出てきます。イエス様はこの患者を深く憐れまれます。「憐れむ」という言葉は、「はらわたが痛む」という言葉から来ています。イエス様はこの皮膚病に苦しんできた男性を、ご自分のお腹が痛くなるような思いで見つめられたのです。そして、手を差し伸べてその人に触れられました。皮膚病に触れるということは感染のリスクがありました。そのことはレビ記13章に、重い皮膚病の患者は儀礼的に汚れており、他人との接触を避けならないという形で教えられています(レビ13:45、46参照)。しかし、イエス様は触れられたのです。そして「よろしい。清くなれ」と言われると、「たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった」(マルコ1:42)のでした。イエス様だけが人を清めることができるのです。またイエス様は、モーセがレビ記14章で命じているように、いけにえをささげるように指示して、その男性を祭司のもとに遣わされました。マルコによる福音書全体を通じて、イエス様はモーセの教えを擁護し、支持しておられますことがわかります。ところで、イエス様は事の次第を何も話さないようにとこの男性に命じられました。そのことによってイエス様に対して偏見を抱いている祭司の判断がゆがめ、騒ぎとなり、伝道の妨げとなることを避けるためでしたが、彼はその命令に従わず、逆にこの出来事を大いに言い広めてしまったために、イエス様は宣教活動のために公然と町に入ることをできなくなってしまいました。語るべき時には語らなければなりませんが、口をつぐむべきときもあるということです。
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