2024年安息日学校ガイド第3期 「マルコによる福音書」 |
2024年3期7課 弟子たちを教える
【日・はっきり見える】
マルコ8章22~26節にかけて、マルコ福音書にしか記録されていない盲人の癒しのお話が出てきます。多くの場合、イエス様の癒しは一瞬にして起こるのですが、このケースでは2段階で癒されていくのが特徴です。まずイエス様がベトサイダに着くと、一人の盲人がイエス様のもとに連れて来られます。イエス様はその盲人の手を取って村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになると、盲人はぼんやりと見えるようになり、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」と答えます。そこで、イエス様がもう一度両手をその目に当てられると、今度は何でもはっきり見えるようになるのです。この出来事からわかるのは、癒しの祈りは時間をかけながら、少しずつ癒されていくことがあるということです。また霊的な意味では、少しずつ霊的な目が開かれて、神様のことがわかるようになっていくということを表しています。だから、根気強く祈り続ける、求め続けることが大切なのです。この後、イエス様は弟子たちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」、そして、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねられます。多くの人達は、『洗礼者ヨハネだ』『エリヤだ』『預言者の一人だ』などと言っていたようです。イエス様が普通の人ではないことは感じていたようですが、旧約の預言者たちが預言した、「メシア、油注がれた者」とイエス様とを結びつけてはいなかったようです。それに対し弟子たちは、『あなたは、メシアです』とはっきりと答えるのです。イエス様といつも一緒にいるうちに、彼らの目は開かれたのでした。ただし、そのメシアが意味することに関しては、一般の人々と同じように、この世においてイスラエルの王となるお方だと誤解していました。そのようなこともあって、無用な混乱を避けるために、イエス様はご自分がメシアであると他言してはならないと弟子たちを戒められました。
【月・弟子になることの代償】
イエス様がメシアであることに目が開かれ始めた弟子たちは、重大な転換点を迎えます。イエス様は弟子たちに、ご自分の使命、すなわち、「多くの苦しみを受け、拒絶され、殺され、そして3日後に復活する」(マルコ8:31)ことを教え始められるのです。ところが、ペトロはそれを聞くと、イエス様をわきへと連れていき、「そのようなことがあってはなりません」と、いさめ始めるのです。すると、「イエス様は振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(8:33)と言われたのです。興味深いのは、ペトロではなく、弟子たちを見ながら言われたことです。つまり、これはペトロだけの問題ではなく、他の弟子たち、そして私達一人一人に対する強いメッセージでもあることがわかります。イエス様が問題としたのは、「神様のことを思わず、人間のことを思っている」ことでした。そして、そのことによって神様の御心とは異なる思いとなってしまったペトロに対して、「サタンよ、引き下がれ」と、このときペトロの心は神様ではなく、サタンと同じ思いとなっていることを示されたのでした。イエス様に従う者は、十字架を背負い、イエス様と同じ目的を持って生きるように召されているのです。
【火・山と群衆】
イエス様は弟子たちに向かって、「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」と不思議なことを言われました。(マルコ9章1節)。それはこの六日後に起こりました。なんと、天からイエス様を励ますために、モーセとエリヤがやってきて、イエス様と語り合うという前代未聞のことが起こったのです。まさにその場は一瞬にして神の国となり、イエス様のお体は真っ白に輝いたのでした。その場にいたのは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人でした。この変貌の山での驚くべき出来事によって、いやがおうにもこの3人の弟子たちの関心はメシアとしてのイエス様に向けられていきました。そこで、おそらく前々から気になっていた律法学者たちは、なぜ、メシアが現れる前に、まずエリヤが来るはずだと主張しているのかと尋ねます。それに対してイエス様は、マラキ3章23節において、「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす」と預言されているからだと答えます。そして、確かにエリヤは再来したのだと続けられたのです。実は、あのバプテスマのヨハネこそ、預言されたエリヤだったのです。しかし、皮肉なことに、エリヤ再来を主張する人々にはそれがわからず、ヨハネを好きなようにあしらってしまったのでした。こうして、イエス様はこれまで隠されてきたことを次々に明らかにしていったのでした。
イエス様たちが山から下り、他の弟子たちのもとに戻って来られると、彼らは一人の少年から悪霊を追い出すことができず、途方に暮れているのに遭遇します。イエス様はご自分の死が近づいていることを思い、「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか」(マルコ9:19)と言われます。また、「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」(マルコ9:22)と言う少年の父親に対しては、「『できれば』とは、どういう意味か」と、不信仰を責められました。そして、汚れた霊をお叱りになると、少年から悪霊は出ていったのでした。
【水・誰が一番偉いか】
カファルナウムへ行く道中、弟子たちは、だれがいちばん偉いかと議論し合っていました。そのような議論を主が喜ばれないことは弟子たちにもわかっていましたが、気になって仕方がなかったようです。これはなぜなのでしょう。上に立ちたいという思いは、悪魔が悪魔になった原因です。そのため悪魔は同じ思いを抱くように人々を誘惑し、そのことによって神様からその人の心を引き離そうとしているのです。すると、イエス様は十二人を呼び寄せて、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(マルコ9:33)と言われました。この社会においては、誰かが上に立ち、責任をもたなければならないため、上に立ってはならないとは言われませんでしたが、その人は意識的にすべての人の後になり、すべての人に仕える者にならなければならないと言われました。つまり、謙遜な思いをもって人の上に立ちなさいということです。悪魔の誘惑に負けないためです。そして、イエス様は子どもを真ん中に立たせ、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われました。小さな子どもとは、文字通り子どものことであるのと同時に、社会的な弱者をも表しています。上に立つ者は、このような小さな者を受け入れるものでもあるということです。
【木・地獄の健康な人】
イエス様は、小さな子どもを受け入れなさいと言われた後、逆に「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」(マルコ9章42節)とも言われました。躓かせるとは、信仰を失わせてしまうようなことをすることです。信仰を持ったばかりの信仰がまだ育っていない者は、ちょっとしたことで躓いてしまいやすいものです。何気ない言葉や態度が傷つけてしまうかもしれません。だから、優しく愛をもって接し、信仰を育ててあげるように、あるいは、一緒に信仰を成長させていけるように、意識的に関わりを持っていくことが大切なのです。
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