2024年安息日学校ガイド第3期
 「マルコによる福音書」

202438課 弟子たちを教える(その2)

 

【日・結婚に対する神の計画】

 

ファリサイ派の人々がイエス様を試そうとして、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねました。ファリサイ派の人々は、離縁は合法と考えていました。それは申命記241節以降に、「妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせ(ても良い)」と書いてあるからです。もし、イエス様が離縁してはならないと答えたならば、この申命記24章から、イエス様を訴える口実を得ることができると考えたのでしょう。ところで、この申命記24章の教えは、本来、身勝手な理由で妻を離縁してはならないというのが本来の主旨なのですが、それを当時の男性の多くが、「離縁したい時は、離縁状を渡せば良いのだ」と、自分に都合良く解釈していたのでした。イエス様はこの問に対して、直接申命記24章から論ずるのではなく、結婚に対する神様の本来の理想について言及されました。つまり、神様は初めに人を男と女に創造され、父母を離れて二人は一体となり、神が結び合わせてくださったものを人は離してはならないということです。この「結び合わせた」という言葉は、「くびきを担う」、つまり、「重荷を共に担う」という意味の言葉からきています。ですから、男性が女性を一方的に支配するのが結婚ではなく、神様のもとで一緒に、人生の喜びも悲しみも負い合う関係となるのが、神様が与えて下さった本来の結婚関係なのです。こうしてイエス様は、夫が一方的に妻を離縁できるという考え方が、間違っていることを示されたのでした。

 

【月・イエスと子どもたち】

 

イエス様に触れていただきたくて、人々が子供たちを連れて来ました。ところが、弟子たちはイエス様を煩わせてはならないと思ったのか、彼らを叱りつけます。当時の子供たちの社会的地位が低く、奴隷のように扱われる傾向があったというのも、弟子たちの態度に現れていたのかもしれません。すると、イエス様はそんな弟子たちの態度を見て憤られるのです。良かれと思ったのにイエス様から叱られることになって、弟子たちもびっくりしたことでしょう。そして、イエス様は次のように教えられたのです。

「神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(マルコ10:1415

これは、当時の常識を覆すものでした。というのも、当時ユダヤでは、まだ神の掟と戒めをよく学んでいない子供たちは、神の国には入れないと考えていたからです。それゆえ、教育を重んじるユダヤの伝統を生み出したのでが、イエス様はすでに「神の国は子どもたちのものだ」と言われ、そればかりでなく、子どものように神の国を受け入れなければ、決してそこに入ることはできないとまで言われたのです。子どもの特徴、それは純粋であるということでしょう。子どものころの心をもう一度取り戻し、純粋な心で、疑ったり難しく考えたりしないで、神の国を受け入れるものとなりたいものです。そして、少なくとも神様のもとに来る子どもたちを妨げることのないように注意したいものです。

 

【火・最高の投資】

 

ある人がイエス様のもとに走り寄って、ひざまずき、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(マルコ1017)と尋ねます。小さい時から律法もすべて守ってきたと言います。でも、何かが足りないと感じていたのでしょう。確かに、彼には足りないものがありました。イエス様は慈しみ深く、「あなたに欠けているものが一つある」と言われました。そして、「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と続けられたのです。彼は、律法をすべて守っているつもりでいましたが、財産が偶像となっていることを主はご存じでした。もし、貧しい人々に全財産を施すことができるなら、天に富を積むことになるのでした。しかし、彼はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去るのです。イエス様が弟子たちに、「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。」と言われると、弟子たちの間に動揺が起こります。すると、イエス様は永遠の命を受け継ぐ唯一の方法を示されるのです。それは「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできる」(マルコ1027)ということでした。この人にただ一つ欠けていたものとは、何でもおできになる神様を信じる信仰だったのでしょう。ただ一つ欠けているとイエス様は言われましたが、永遠の命のために必要なものは、実は、このただ一つのことだけなのです。ところで、最初に「善い先生」と彼はイエス様を呼んだとき、イエス様は「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神お一人のほかに善い者は誰もいない」と言われました。これはあたかも次のように言われているように聞こえます。「神だけが善いものである。それをあなたは、わたしのことを『善い』と呼ぶからには、わたしを神だと信じて尋ねているのか?」と。もし、彼がこの言葉の通り、イエス様を神の御子、救い主であると信じていたなら、欠けるものなどなかったのかもしれません。

 

水・私が飲む杯を飲むことができるか

 

ヤコブとヨハネの兄弟は、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(マルコ1037)と願いました。イエス様が王として立つとき、自分たちをナンバー2,ナンバー3にしてほしいということです。この「一人を右に、もう一人を左に」という言葉は、やがて意外な場面で使われます。それはイエス様とは別に二人の強盗が十字架に、「一人は右に、もう一人は左に」つけられて処刑された場面です。もちろん、この強盗達とヤコブ、ヨハネは立場も、歩んで生きた道も違いますが、自分の十字架を負わなければならないという点で共通しています。イエス様はヤコブとヨハネに「わたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」(マルコ1038)と尋ねられましたが、イエス様の杯とは十字架のことです。つまり、日々自分の十字架を負って自分に死に、イエス様に従ってくることができるかと尋ねられたのです。二人は意味もわからずに「できます」と答えますが、それに対してイエス様は、「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる」と言われたように、二人は大きな苦難を通って、与えられた働きを成し遂げていくことになるのでした。

 

【木・「何をしてほしいのか」】

 

エリコの町で、盲人バルティマイが「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫びました。周りの者がうるさいとしかりつけると、なお一層、激しく叫ぶのでした。その声がイエス様の耳に届くと、イエス様は彼を連れてくるようにと言います。神様に叫び続ける声は、必ず届くということです。イエス様が「何をしてほしいのか」と言われると、盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言います。イエス様は何をしてほしいか、ご存じのはずです。しかしそう尋ねるのです。これは私達の信仰と望みをはっきり言葉にすることの大切さを教えています。漠然と救って下さいではなく、どのように救ってほしいのかを言葉にするのです。そのとき、より一層信仰が求められることに気づかされることでしょう。ところで、バルティマイはイエス様のことを、「ダビデの子」と呼びました。これは彼が、イエス様がメシアであり、癒し主であることを信じている証でした、

 

 

 

 

 


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