2024年安息日学校ガイド第3期 「マルコによる福音書」 |
2024年3期3課 論争
【日・中風の人をいやす】
マルコ2:3~5「四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。」
マルコ2章に、イエス様が4人の友人によって運ばれてきた中風の男性を癒される場面が記されています。このときイエス様は「その人たち(4人の友人)の信仰を見て」とあります。イエス様の癒しを引き出したのは4人の友人たちの信仰だったということがわかります。それとともに、イエス様は彼らの信仰を見たとあります。これは、信仰は行動となって見える形で現れるものであるということです。彼らは屋根をはがして穴をあけてまでして、中風の男性をイエス様のもとまで連れてきましたが、それはイエス様が必ず中風の男性を癒してくださると信じていたからです。彼らのその信仰がこのような大胆な行動となって現れたのです。突然のことに、そこにいた人たちも驚いたことでしょう。ところが、イエス様が「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたことから空気が一変します。神を冒涜しているように聞こえたからです。中風の男性には罪の自覚がありました。肉体の苦しみ以上に、罪の自覚が彼を苦しめていました。イエス様はそのことを察知し、同時にご自分に罪を赦す権威があることを知らせるために、このように言ったのでした。それからイエス様は、「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われると、中風の男性はすぐに起き上がったのでした。当時、病は罪の結果だと信じられていました。そのため病気が癒されたということは、イエス様には確かに罪を赦す権威があることを示す結果となったのでした。
【月・レビの召しと断食に関する質問】
「アルファイの子レビ」は徴税人でした。マルコ3章18節には、「アルファイの子ヤコブ」とあり、並行記事のマタイ9章9節以下では徴税人マタイとなっています。これらはみな同じ人物かもしれませんし、違うかもしれませんが、いずれにしても、徴税人の一人がイエス様の弟子、十二使徒の一人となったということは間違いありません。当時、徴税人は罪びとの頭のように呼ばれていました。家に入ってくるだけで、汚れてしまうと言われるほどでした。しかし、イエス様はそのような人々を隔てることなく、逆に積極的に交わられました。その結果、
ファリサイ派や律法学者から批判されます。それに対してイエス様は「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2章17節)と、はっきりとイエス様は罪びとのために地上に来られたことを告げられたのでした。すると、今度はヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々が、「なぜイエス様の弟子たちは断食をしないのか」と質問してきました。彼らは伝統的に週2回の断食をしていました。それに対して、イエス様は「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。」(マルコ2:19、20)と答えられ、真の信仰は型にはまったり、伝統に縛られるものではないことを示され、さらに「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」(マルコ2:22)と、新しい時代が来たことを告げられたのでした。
【火・安息日の主】
安息日に弟子たちが麦の穂を摘み始めたとき、ファリサイ派の人々が安息日にしてはならないことをしたと非難しました。それに対してイエス様は、ダビデも空腹だったとき「祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか」といい、さらに、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」(マルコ2:27,28)と続けられたのでした。安息日は、主にあって、人の喜びのために主ご自身が定めてくださったものであるのに、まるで人が安息日に支配されているかのようになっていました。マルコ3章2節を見ると、「人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか注目していた」とあります。安息日が喜びの日ではなく、裁きの日になってしまっていることがわかります。彼らにとって、安息日の主が不在なのです。安息日にイエス様が手の萎えた人を癒されると、それを喜ぶのではなく、イエス様を殺そうと思うほど心はゆがんでしまっていました。イエス様が、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」とお尋ねになると、彼らは黙るしかありませんでしたが、心の中は怒りでいっぱいでした。そして、イエス様を殺す計画を立て始めたのです。皮肉なことに、安息日を破ったことでイエスを捕まえようとした者たちが、同じ日にイエスの死を企てることによって、自らも安息日を破っていたのでした。
【水・サンドイッチ物語(その1)】
マルコ 3:20~35にかけて、二つの物語がサンドイッチ状に挟まれる形で展開しています。ここでは、真ん中に挟まれた話―悪霊を追い出す話を見ます。悪霊を追い出したイエス様に対して、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と律法学者たちは批判しました。それに対して、「どうして、サタンがサタンを追い出せよう」とイエス様は反論します。そして、「聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」(マルコ3章29節)と、これは聖霊の働きであり、それを否定するならば、赦されない罪を犯すことになると言われたのでした。ところで、悪霊追い出しの流れの中で、イエス様は「まず強い人を…縛ってから、その家を略奪するものだ」と言われましたが、これはイエス様ご自身が、この世の君としてのさばっているサタンを縛り上げ、とらわれ人を解放されるとの宣言と理解することができるでしょう。
【木・サンドイッチ物語(その2)】
イエス様を知る人たちは当初、「気が変になっている」と思ったようです。そのことが身内の耳にも入ると、彼らはイエス様を取り押さえるためにやって来たようです。イエス様はあまりにも忙しく、食事をする時間も取らなかったのも、家族を心配させ一因となったことでしょう。ところが、身内の者たちがやってきていることを知らされると、イエス様は「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(マルコ3章35節)と答えられます。真の神の家族とは、神の御心を行う人達です。たとえ肉親であっても、神の御心に逆らうならば、神の家族にはなれません。ゆえに家族伝道は大切なのですが、それと共に、神様を信じ、御心を生きる者たちはみな、神の家族となる。これは私達にとって大きな喜びです。
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