2024年安息日学校ガイド第4期
 「ヨハネによる福音書」

2024年4期1課 道を指し示すしるし

 

【日・カナの婚礼】

 

ヨハネ211節「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」

 

イエス様が最初に行った奇跡はカナの婚礼の席で、水がめの水をぶどうジュースに変えるというものでした。この奇跡は、モーセがナイル川の水を血に変えた奇跡を連想させます。それにより、モーセがエジプトから同胞を脱出させるために神が選ばれた器であることを、多くの民に信じさせる最初の奇跡となりました。これと同様に、カナの婚礼において、水をぶどうジュースに変えた奇跡により、神の栄光が現わされ、弟子たちがイエス様を信じる力強い証となったのでした。また、このとき用いられた水がめの水は、清めのための水でした。そのことから、人を罪から真に清めるのは、ぶどうジュースに象徴されたキリストの血のみであることを教えているのでしょう。

 

【月・ガリラヤでの 2 回目のしるし】

 

イエス様がサマリヤから再びガリラヤに戻って来られると、カファルナウムの王の役人の息子が病気で死にそうな状況にあったため、イエス様に癒しを請いにやってきます。ヨハネはその際、ガリラヤをあえてイエス様が水をぶどう酒に変えられた所と描写し、そこで行われた癒しの奇跡が、「ガリラヤに来てなされた二回目のしるし」(ヨハネ454)であることを記しています。最終的には、数えきれないほどの奇跡をイエス様は行われるわけですが、故郷ガリラヤでの最初のころの奇跡は、弟子たちにとって特に印象的であり、彼らの信仰を強めたと思われます。そのため何回目のしるしであるかが記されているのかもしれません。ところで、イエス様はこの役人の父親に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われました(ヨハネ448)。父親はイエス様に助けを請いながら、どこかでイエス様を信じ切れていなかったのでしょう。そのことがイエス様に見透かされると、慌てて、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言います。すると今度は、イエス様は優しく、「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と言われます。父親も、そのイエス様の言われた言葉を素直に信じて帰って行きます。その途中、息子が癒されたとの知らせを受けるわけですが、まさにイエス様が「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と言われ、その言葉を信じた瞬間、癒されたことを知るのです。

 

【火・ベトザタの池の奇跡】

 

ヨハネ5章に、ベトザタの池での癒しの物語が出てきます。そこには奇跡を求めて大勢の病人や体の不自由な人たちが横たわっていました。イエス様は、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいるのを見て、「良くなりたいか」と言われました。もし、私達だったら何と声をかけるでしょうか。「お辛いですね」とか、「どこが悪いのですか」とか、色々と病状について尋ねるのではないでしょうか。しかし、イエス様は一切病気についてお尋ねになることなく、ただ「良くなりたいのか」とだけ尋ねられるのです。癒し主にとって、どんな病気であるかはどうでも良いのです。本人が良くなりたいと思っているかどうかが重要なのです。そのとき希望と可能性が生まれるからです。ところが、彼はイエス様の問には答えず、「池の中に入れてくれる人がいない」と、癒されない理由を述べています。私達も奇跡を起きない理由を見つけて、あきらめたり、変に納得してしまったりすることはないでしょうか。しかしイエス様は、この男性の言葉を無視して、唐突に、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われました。「すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした」(ヨハネ59)のです。彼に大きな信仰があったわけではないでしょう。彼は、ただイエス様の言葉に対して難しいことを考えず、単純に従って起き上がったのです。神の力は、神の言葉に単純に従うときに現わされることがわかる一例です。

 

水・かたくなな心

 

ベトザタの池での癒しは感動的なことでした。ところが、ユダヤ人たちはこのことによって、イエス様を迫害し始めるのです(ヨハネ516)。それは、イエス様がこの男性を癒されたのが安息日だったからです。安息日にいやしが許されるのは、緊急の場合に限られていました。この男性は38年間もの間、不自由な状態が続いていたので、確かに緊急ないやしは必要ないと考えるのは自然かもしれません。しかし、イエス様は、逆に38年もの間苦しんできたのだから、そこから解放してあげたいと思われたのです。ただ、床を担がせる必要性はなかったかもしれません。その行為が律法に抵触することをイエス様はご存じの上で、あえてさせていることを考えると、人間が作り上げてきた規則や規定が、真の信仰を妨げることがあることを教えようとされたのかもしれません。そして、それにより、さらに深い聖書の真理へ導こうとしておられたのです。

 

【木・イエスの主張】

 

イエス様は、安息日について、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(ヨハネ517)と言われました。ユダヤ人たちは、それを聞いて益々イエス様を殺そうとねらうようになります。それは単に安息日を破るだけでなく、「神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからです」(ヨハネ518)。神様は安息日にも宇宙を維持しておられます。イエス様の安息日の活動は、ご自分が神であるという主張の一部となっていたのでした。ユダヤ人たちの批判に対して、イエス様は三つの段階を踏んでご自分の行動を擁護しておられます。最初に、父なる神様との親密な関係を示されます。すなわち、ご自分の行動と父なる神様の行動が常に調和していること、父なる神様と同様に、ご自分にも死者を裁く力と復活させる力があることを示されました(ヨハネ5:1930)。次に、イエス様はご自分を擁護するために、立て続けに4つの「証拠」を提示されます。バプテスマのヨハネがイエス様を証していること(ヨハ5:3135)、ご自分が行われる奇跡の業が証していること(5:36)、父なる神様が証していること(5:3738)、そして、聖書がご自身について証していることです(5:39)

 

 

 

 

 

 


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