2024年安息日学校ガイド第4期 「ヨハネによる福音書」 |
2024年4期12課 「栄光の時──十字架と復活」
【日・真理とは何か】
ローマ総督ピラトはイエス様に、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋ねます。ローマ人にとって王はカエザルただ一人です。それ以外に王がいるとしたら、それはローマに対する反逆となるのでした。するとイエス様は恐れることなく、「そのとおりだ」 (マタイ27:11)と答えます(ヨハネは省略している)。そして、興味深いのは、その後イエス様が言われた言葉です。イエス様は、「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」(ヨハネ18:34)と逆にピラトに問いかけるのです。イエス様が「王の王、主の主」であることは真実ですが、人から聞いて、そう言うのであれば意味はありません。心から信じて自分の信仰告白となってこそ意味があるのです。ところが、ピラトは「わたしはユダヤ人なのか」と、この問いから逃げるのです。イエス・キリストは誰なのか。すべての人が自分自身に問わなければならない重要な問題です。しかし、ピラト同様、多くの人はそうすることをしません。ピラトは「お前の同胞や祭司長たちがお前をわたしに引き渡したのだ」と言うと、イエス様は「わたしの国は、この世には属していない」(18:36)と答えます。この言葉は核心に迫る言葉です。そして、私たちも同様に、「わたしたちの国籍は天にある」(フィリピ3:20)と言うことができるのです。さらにイエス様はピラトに、「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」(ヨハネ18:37)と話されました。この言葉にピラトは動揺します。そして、何かただならぬものを感じて、イエス様を助けようとするのでした。
【月・見よ、この男だ!】
ピラトはイエス様を訴える群衆たちに対して、イエス様には「何の罪も見いだせない」と訴えました。正しい裁判官がローマの法に照らして見れば、イエス様が無罪であることは一目瞭然でした。しかし、群衆を恐れたピラトは何か良い方法はないかと考え、「過越祭にはだれか一人を釈放するのが慣例」となっていたことを思い出します。これを利用し、イエス様を釈放しようじゃないかと持ち掛けるのです。しかし、群衆たちはその提案を拒否し、盗賊のバラバを釈放しろと言う始末です。そこで最後にピラトは、イエス様を鞭打ちにします。そうすれば群衆の気もおさまるだろうと考えたのでしょう。イエス様はローマ兵にあざけられ、鞭打たれ、血を流し、屠られた子羊のように、ボロボロの姿で群衆の前に連れて来られます。ピラトは「見よ、この男だ」(ヨハネ19:5)と言います。それはまるで、バプテスマのヨハネが群衆たちの前でイエス様を、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」(ヨハネ1:29)と紹介した言葉を連想させます。しかし暴徒化した群衆を抑えることはもはや不可能でした。
【火・「成し遂げられた」】
ピラトは「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」(ヨハ19:19)という罪状書きを書かせました。それは、イエス様が王として十字架上で即位されることを示すしるしの一つでした。
「ピラトよりも、あるいはユダヤ人よりも高い権力が、その罪状書きをイエスの頭上にかけるように命じたのだった。」(『希望への光』1071ページ)。
また、十字架上からイエス様は、母マリアに、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」(ヨハ19:26)とヨハネのことを言い、またヨハネに対しても、「見なさい。あなたの母です」(同19:27)と言って、残していく母のことを思いやります。ヨハネは言われた通りマリアを家に引き取って、一緒に暮らしました。そして最後に、「成し遂げられた」と言って息を引き取られたのでした。残酷な十字架でしたが、それをもってイエス様が地上に来た目的をすべて完了したのでした。
【水・空の墓】
イエス様が亡くなられたのは金曜日の午後遅くであり、安息日が迫っていたので、きちんと埋葬ができませんでした。どれほどイエス様を愛していても、弟子たちは安息日を守ったことがわかります。翌日曜日、婦人たちがイエス様のご遺体に香油を塗るために行ってみると、墓の入り口をふさぐ大きな石が転がされており、中を見ると、イエス様のご遺体が消えていました。知らせを受けたペテロが急いでイエス様の墓に駆け付けると、中に亜麻布が置いてあるのを見ますが、その中にあるはずのイエスのご遺体が確かにありません。また、「頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった」(ヨハネ20:7)ことから、墓荒らしの仕業にしては妙です。そもそも墓荒らし遺体を盗みませんし、たとえ盗んだとしても、布を丁寧に丸めておくことはしないでしょう。このような小さな点もイエス様の復活が事実であることを物語っていました。
【木・イエスとマリア】
ペテロとヨハネは、墓が空であることを確認すると、そのまま帰ってしまいました。マリアは一人だけ墓の中にとり残される形となったのですが、そのとき、イエス様のご遺体が寝かせてあった場所に、白い衣を着た二人の天使が現れます。天使は、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と問いかけます。マリアは「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」(ヨハネ20:13)と答えますが、このような答えから、イエス様が復活されたことが分かっていなかったことがわかります。墓の中は空だったのは、イエス様が復活されたからですが、それならば復活されたイエス様はどこにおられるのでしょうか。マリヤは後ろにもう一人、人が立っているのが見えました。墓の番人だと思いました。その人は、天使と同様に、「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」と問いかけます。マリアは、その人に向かって「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」と言います。その時でした。その墓の番人かと思った人が、「マリア」と名前を呼んだのです。その懐かしい声に、マリアはその人がイエス様であることがわかり、うれしさのあまり飛びつきました。イエス様は、「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」と言い、このあと父なる神様のもとに上り、すべての救いの業が完了したことを告げに行くことを教えて下さいました。マリアはこの出来事を、すぐに弟子たちに伝えに戻っていきました。
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