2024年安息日学校ガイド第4期 「ヨハネによる福音書」 |
2024年4期13課 「結び──イエスとその言葉を知る」
【日・ガリラヤでの再会】
イエス様は復活後、ガリラヤ湖で漁をしている弟子たちの前に姿を現わされました。弟子たちの前に現れたのは、これで三度目でした。イエス様は、一晩中漁をしても魚が取れなかった弟子たちに、「右側に網を打ちなさい」と声をかけられると、なんと百五十三匹もの大きな魚が網にかかりました。ここから、人間的には不可能なことでも、イエス様のお言葉通りに行うならば、奇跡が起こるということを学ぶことができます。また岸に上がってみると、イエス様は弟子たちのために朝食の準備をしてくださっていました。これは私達に食べ物のことで心配するなということを教えているのかもしれません。
食事が終わると、イエス様はペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と三度繰り返して尋ねられます。これはペトロがイエス様が捕らえられた時、恐れて三度イエス様を知らないと否定したからでした。ペトロは、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えます。興味深いのは、原語のギリシャ語で見ると、イエス様は神の愛である「アガペー」の愛で「私を愛するか」と尋ねているのに対して、ペトロは、それより次元の低い、友愛を表すフィレオーの愛で、「あなたを愛します」と答えています。ここに自信家だったペトロの砕かれた姿があります。そのように謙虚な態度で答えるペトロに、イエス様は「わたしの小羊を飼いなさい」(ヨハネ21章 15節)と言われました。神様は砕かれた謙虚な者を用いられるのです。
【月・イエスから目を離さない】
イエス様はペトロに対して、「他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(ヨハネ21:18)と、どのような死に方で、神様の栄光を現すようになるかを示されました。実際にペトロはとらえられ、殉教の死をとげるわけですが、それは神様の栄光となるのでした。このように話してから、イエス様はペトロに、「わたしに従いなさい」と言われました。すると、ペトロはヨハネのことが気になり、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と尋ねます。しかし、イエス様は「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」(ヨハネ21:22)と、ヨハネのことは気にしないで、自分が主に従うことだけを考えなさいと言われました。これはとても大切なことです。私達もつい他の人の歩みが気になるものです。神様はそれぞれ一人ひとりにご計画があり、それに従って導かれます。しかし、イエス様はその時、自分と神様との関係だけに目を向け、他者に対する主の導きにまで頓着してはならないと教えられたのでした。
【火・光と闇】
「光あれ」。すべては神様のこの言葉から、この世界は始まりました。混沌とした闇の世界に、はじめて光がもたらされたのです。しかし、人は罪を犯し、この世界は再び、闇の中に閉ざされてしまいました。この光に照らし出されなければ、神のもとに行くことができません。光を見失ってしまった人間は、すなわち神を見失ってしまったのです。しかし、御子イエス・キリストは再び、この地に光を灯すために、人として来てくださいました。私達は、イエス・キリストを通して、父なる神を知り、そして、その御許に行くことができるようになったのです。しかし、イエス様を信じることができない人は、闇の中に取り残されたままです。
ところで、イエス様は「わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ」(ヨハネ8章43節)と言われたことがありました。悪魔に心が支配されてしまった人は、イエス様の言葉を聞いても、それを受け入れることも、理解することもできません。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1章 5節)とある通りです。欲望や自己愛、人を許せない心、そのようなものがサタンに心を明け渡してしまうのです。すると、せっかく闇の世に光が灯っているのに、それがわからなくなってしまうのです。
【水・「上」からの神学、「下」からの神学】
「上」からの神学、それは神の言葉を信じる信仰によって応答します。イエス様は、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」(ヨハ8:31)と言われましたが、逆に、もし私たちが神の言葉を疑うなら、み言葉が私たちの内にとどまることはなく、キリストの弟子となることもできません(同5:38)。これに対して、「下」からの神学とは、人間の考えを基準として、神の言葉を自分に都合よく当てはめようとします。人間の考えは、欠陥があり、限界があり、主観的であるにもかかわらず、それが神の言葉を解釈する最終的権威となります。そうすると、やはり、正しく神の言葉がその人のうちにとどまることはないでしょう。この罠に私達には十分気を付けなければなりません。
【木・イエスの内にとどまる】
ヨハネ12章 32節
「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」
十字架の時が近づいている中で、イエス様は「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」と言われました。イエス様のみ心は、すべての人をご自分のもとへ引き寄せることでした。しかし、それを拒む人たちたちも大勢いて、その場合、どうすることもできないのでした。イエス様は「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネ15章5節)と言われましたが、先の言葉と合わせるなら、イエス様は「私達をご自分のもとに引き寄せて下さるから、その後は、私にしっかりと、つながっていなさい」ということになるでしょうか。この「つながる」と言う言葉は、「幕屋を張る」というのが直訳です。つまり、単につながるということ以上のことを意味しており、イエス様の中に宿る、イエス様の内に生きるということを意味しています。イエス様に引き寄せられた後、そこにとどまるのか、それとも離れていくのか。これは一人ひとりが決めることになるのです。
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