2024年安息日学校ガイド第4期
 「ヨハネによる福音書」

2024年4期2課 神性のしるし

 

【日・5000人の給食】

 

ヨハネ6章に、ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいてきたとき、イエス様は5つのパンと2匹の魚で5000人の人を養った出来事が出てきます。過越祭はイスラエルの民がエジプトの奴隷から解放されたことを記念する祭りですが、その際、主はモーセを用いられました。このモーセとイエス様には、いくつもの共通点があります。①二人の登場はともに予告されていた。②幼子の時、命がねらわれた。③最初のしるし(奇跡)が、共に水を血(ぶどうジュース)に変えることだった。④40日の断食を行った。⑤そして、何よりも民を新天地に導いた。このような類似点から、モーセはキリストの型であるとも言われています。このようなことから、ヨハネは、イエス様が単にしるしや不思議な業をなさったということを示すのではなく、モーセと同じように、イエス様は全人類を罪の奴隷から解放するために来られた方であり、これらの奇跡としるしが、イエス様の神性を表していることを示しています。

 

【月・「まさにこの人こそ・・・預言者である」】

 

ヨハネ61415節「人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来るべき預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、独りでまた山に退かれた。」

 

ユダヤ人は、ローマ帝国の圧政から自分たちを解放してくれるメシアを待ち望んでいました。イエス様が突如人々の前に現れ、様々な奇跡を行い、権威あるもののように話すのを聞いて、この方こそ、来るべきメシアに違いないと思いました。確かにその通り、イエス様は来るべきメシアでした。しかし、彼らが望んでいたようなユダヤ人の王として君臨するためではなく、全宇宙の王、救い主として、罪を贖うために十字架で死なれるために、世に来られたのでした。また、モーセが神様の名を尋ねたとき、「私はある。私はある」というものだと答えられたことがありましたが、それに合わせるように、ヨハネ福音書の中に、「私は~である」という言い方で、イエス様がご自身を表している箇所が7か所出てきます。最初にそう表現されたのは、この5000人にパンを食べさせたあとのことでした。そのときイエス様は、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがない」(ヨハ6:35)とおっしゃいました。命のパンとは、霊的なものです。5000人に与えたパン以上のパン、永遠の命に至るパン、それがイエス様だったのです。しかし、多くの人々は永遠の命に至るパンではなく、この世の利益を求めていたために、これが分からなかったのです。

 

【火・盲人のいやし(その 1)

 

通りすがりに、生まれつき目の見えない人がいました。すると、弟子たちはイエス様に、「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」(ヨハネ92節)と尋ねます。このような因果応報の考えは一般的なもので、誰かが罪を犯したから、神様の祝福を受けられず、病気になると考えられていました。確かに、不摂生の結果、病気になるということはあるでしょう。しかし、イエス様は驚くべき真理を語られるのです。それは「神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ93)ということでした。生まれつき目が見えないのは、罪の結果ではなく、神の御業が現れるためなのだと言われたのです。では、どのように神の御業が現れるのでしょうか。すると、イエス様はこう続けられました。

 

「私たちは、私をお遣わしになった方の業を、昼の間に行わねばならない。誰も働くことのできない夜が来る。私は、世にいる間、世の光である」(ヨハネ945

 

「私達は」と言われていることに注目しなければなりません。つまり、イエス様は、弟子たちに対し、世の光である私と共に、この人に、神の御業をなすのだと言われたのです。それは奇跡のことを言っておられるのでしょうか。祈って奇跡を神に期待することもあるでしょう。しかし、奇跡だけでなく、目の見えに人の目になってあげるような、愛の業こそ、神の御業ではないでしょうか。生まれながらの弱者がいるのは、そこに神の業である愛が生まれるためなのだと、イエス様は教えられたのです。

 

水・盲人のいやし(その 2)

 

生まれながらの盲人の目が見えるようになった。このような驚くべき出来事を前に、ファリサイ派のイエス様に対する評価が分かれます。そこで当人やその両親を呼び、事情を問いただすのですが、それはまるで、何か悪いことでもした人に対する尋問のようでした。元盲人は、「ただ一つ知っているのは、目の見えなかった私が、今は見えるということです」(ヨハネ927)と自分の身に起きた事実を述べます。しかし、それを受け入れようとしない指導者たちに、最後はあきれて、こう言ってのけるのです。「あの方がどこから来られたかご存じないとは、実に不思議です。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならないはずです」(93033)。実に爽快です。さらに感動的なことが、この後待っていました。彼が外に追い出されたことを聞きつけたイエス様が、なんと再び彼のもとにやって来られ、「あなたは人の子(イエス様)を信じるか」と問われます。彼は即座に「主よ、それはどなたですか。その方を信じたいのですが」と答えると、「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」(937)と、イエス様はご自分を現わされたのです。そして、「私がこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」(939)と言われました。盲人の目が開かれただけでなく、神の世界の真実が見えるようになったのです。そして、そのためにイエス様は世に来たのだと言われたのでした。ところで、「世を裁く」とは、二つに分けるという意味があります。つまり、イエス様が見える人と見えない人に分けるために、世に来たと言われたのでした。

 

【木・ラザロの復活】

 

ヨハネ11章には、ラザロの復活の物語が書かれてあります。ラザロが死にそうな状況にあることを知らされたイエス様は、すぐには駆け付けず、死後4日も経ってからやって来ます。すでにラザロは死んでしまっており、遺体は腐り始めていました。とても復活など期待できない状況になるまで、イエス様は待たれたのかもしれません。姉のマルタとマリヤの悲しみに、イエス様も涙を流されますが、その涙は単に同情の涙ではありませんでした。というのは、「心(霊)に憤りを覚え」(ヨハネ1133)て涙を流されたとあるからです。それはおそらく、人間にはどうすることもできない死に対する憤りであり、しかし、その死さえ勝利に飲み込んでしまう主の復活の力を信じることができない不信仰に対する憤りだったのでしょう。イエス様は盲人に視力を与えることで、ご自分が世の光であることを示されたように、ここでラザロを死者の中から復活させることで、ご自分が復活であり、命であることを示されたのでした。

 

 

 

 

 

 


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