2024年安息日学校ガイド第4期 「ヨハネによる福音書」 |
2024年4期3課 執筆の背景──序言
【日・初めに――神なる言】
ヨハネによる福音書1章1節は、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と始まっています。はじめてここを読んだ人は少し混乱してしまいそうな表現ですが、ヨハネは、「初めに言があった」と表現することで、読者の思いを、天地創造の時に向けさせています。創世記1章1節に、「初めに、神は天地を創造された」とありますが、この天地創造の「初めに」という言葉を意識して、ヨハネは「初めに言があった」と言っているのです。つまり、天地創造の「初めに言があった」と言っているわけです。「光あれ」。この言葉から、すべてが始まりました。そして、この言葉は、「神と共にあった。言は神であった」と続けます。すなわち、「光あれ」と言葉を発せられた方は神であり、その神は神と共にあったということです。神が神と共にあったという表現も、不自然に感じるかもしれませんが、「言は神と共にあった」の神の前には、冠詞が付いており、特定な存在、つまり父なる神を表しており、「言は神であった」の「神」の前には冠詞が付いておらず、一般的な名称としての神を、御子イエス・キリストを表す言葉として使うことで、両者が違う存在でありながらも、三位一体の神であることを示しています。
【月・言は肉となった】
受肉前のキリストを、ヨハネは「言」と表現しました。そして、私たちが生きているこの世界は、すべてこの「言」によって成ったのだと続けました。「初めにキリストは父なる神と共におられた」と表現しても良いところを、あえて「言」と表現することで、キリストの語られた言葉の持つ圧倒的な力の大きさを教えています。私たちは、そのキリストの言葉である聖書を今、手にしているわけですから、これは実に驚くべきことです。また、ヨハネは「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」と続けます。キリストの言葉である聖書は、私たちを永遠の命に導く希望の光でもあります。ヨハネ1章14節では、その「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と書かれてあります。キリストは人(肉)となって、私たちのそばに、やって来てくださったのです。ところで、この「宿る」というギリシャ語は、幕屋を張るという意味の言葉が使われており、これはかつて、イスラエルの民と共に神が臨在するために、聖所(幕屋)を造らせたのを想起させます。私達の救い主は、遠くの神ではなく、いつも、そば近くにいて下さる方なのです。
【火・「言」を聞くか否か】
「言」であるキリストは、「人を照らす光」であるとヨハネは言いました。太陽が昇れば、すべてを照らし、暗い夜の間は見えなかったものが見えるようになります。それと同様に、キリストは世の光としてすべての人を照らし、キリストの光の中で、今まで見えなかったものが見えるようになります。この光の中で、人は安心を得て、喜びと共に生きていくことができるのですが、この世は、その光を嫌って闇を愛し、「言」なるキリストを認めないのです(ヨハネ1:10)。特に、神様から愛され選ばれたイスラエルの民が、キリストを受け入れることができませんでした。「しかし、言(キリスト)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与え」(1:12)られたのです。神の子となるのは、「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれ」(1:13)ることなるのです。また、このことは、ヨハネ20:31の結論部分でも、「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」と繰り返されています。したがって、序言と結論はつながっていて、この福音書の最も重要な主張、つまり人はイエス・キリストを自分の救い主として信じることによって救われるということを指し示しています。
【水・繰り返し登場する主題―信仰/不信仰】
ヨハネ3章18節「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」
ヨハネは、人類は御子を信じる者と信じない者の二つのグループに分かれていくことを繰り返し、述べています。興味深いことに、「信仰」に相当する名詞(ギリシア語の「ピスティス」)がヨハネによる福音書には一度も使わず、「信じる」(「ピステウオー」)という動詞が、98回も使われています。名詞ではなく、動詞を用いることで、信仰の動的で積極的な面を強調し、生き方そのものに信仰が行いとなって現れるものだと主張しているのかもしれません。また、これら二つのグループの大きな違いは、イエス様との関わり方となって表れます。信じる者たちは、イエス様を愛するのはもちろんのこと、たとえイエス様から叱責されたとしても、イエス様に心を開き、それを受け入れます。ところが、イエス様を信じない者たちは、イエスの言葉を受け入れることができず、逆に反発し、常に戦う姿勢となります。こうして、二つのグループに分かれていく中で、イエス様は「信じない者は既に裁かれている」と宣言されるのです。
【木・繰り返し登場する主題―栄光】
ヨハネ福音書の中でもう一つ繰り返し出てくる主題は、「栄光」です。ヨハネ17章1節でイエス様は天を仰いで、「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」と祈られました。「時が来た」とは、イエス様がこの世から父のもとへ帰る時が来たということです。それはまた、人の子としてこの世を生きてこられたイエス様が、神の子としての栄光を受けるときでもあります。しかし、そのためには、捕えられて十字架につけられて、死ななければなりませんでした。そして、三日目に復活し、その後、天に昇るのです。この時のために、御子は人として地上にお生まれになったのでした。主イエスの十字架の死と復活、昇天によって、私たち人間の罪の赦しが実現し、永遠の命の約束が確かなものとなりました。つまり、主の栄光が表されるとき、私たちの救いが確かなものとなったということです。
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