2024年安息日学校ガイド第4期
 「ヨハネによる福音書」

2024年4期4課 メシアなるキリストの証人たち

 

【日・バプテスマのヨハネの証し】

 

ヨハネ16「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである」

 

ヨハネはキリストを「言」として紹介した後、その「言」なるキリストを世に証するために来た一人の人を紹介します。彼の名も同じヨハネで、この福音書を書いている弟子のヨハネとの混同を避けるために、後に洗礼者ヨハネと呼ばれるようになりました。ところで、彼こそ来るべきメシアではないかと考える人たちもいたため、あえて、「彼は光ではなく、光について証しをするために来た」(ヨハネ18)と紹介しています。そして、洗礼者ヨハネ自身も、公言して隠さず、「わたしはメシアではない」(ヨハネ120)と言っています。実は、キリストが来られる前に、人々の心を備えさせるために、一人の人物が現れることがイザヤ4035に預言されていました。

「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る。」

この預言された人物こそ、洗礼者ヨハネだったのです。私達アドベンチストも同様に、キリストの再臨に人々を備えさせるという同じ使命があります。

 

【月・神の小羊】

 

洗礼者ヨハネは、キリストについて、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と証言しました。当時多くのユダヤ人たちは、自分たちをローマの圧政から解放してくれる人物こそ、メシアだと期待していました。しかしヨハネは、キリストは「世の罪を取り除く」ために来られた「神の小羊だ」と、人々が期待しているものとは異なる人物像を示したのでした。ヨハネの思いは、このとき、イザヤ537の『彼(メシア)は…ほふり場にひかれて行く小羊のように』という言葉に向けられていました。つまり、本来は獅子のような力を持つ全宇宙の王でありながら、ほふられた子羊のように、人々に「仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来られた」(マルコ1045)のでした。

 

【火・ヨハネの 2 人の弟子】

 

洗礼者ヨハネが二人の弟子と一緒にいたとき、イエス様が歩いておられるのを見て、「見よ、神の小羊だ」と、もう一度言います。すると、二人の弟子はそれを聞いて、イエス様について行くのですが、イエス様は二人に気づき、「何を求めているのか」と尋ねられます。それで彼らは、「ラビ(先生)、どこに泊まっておられるのですか」と逆に尋ねると、イエス様は、「来なさい。そうすれば分かる」と答えられました。そこで、二人はイエス様について行き、その日は、イエス様のもとに泊まったと記録されています(ヨハネ139)。一晩中イエス様と一緒にいた二人は、いったい何を聞いたのでしょうか。詳しいことは何も書かれてありませんが、二人の内一人は、やがて12弟子のひとりとなるアンデレで、イエス様がメシアであると確信したようです。それで、すぐに兄弟シモンに、「私達はメシアに出会った」と言い、イエス様のところに連れていくのです。イエス様はシモンを見つめると、突如、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ(ペテロ)と呼ぶことにする」(ヨハネ142)と言われたのでした。それは『岩』という意味でした。こうしてペテロもイエス様の弟子となっていくのでした。

 

水・フィリポとナタナエル

 

アンデレとその兄弟シモン・ペテロは、自らイエス様を尋ねて弟子となりました。しかし、次に弟子となるフィリポの場合は、イエス様ご自身が、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と直接言われます。突然、そのように言われてびっくりしたことでしょう。神様からの召命は、このように突然来ることが少なくありません。祈りつつ、神様の召命に従うものでありたいと思いますが、フィリポはその後、友人のナタナエルに会い、「私たちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」(ヨハネ145)と告げます。アンデレは単に「メシアに出会った」と言いましたが、フィリポは「旧約聖書に預言されている」方(メシア)と付け加えることで、より特別なこととして強調しています。ところが、このフィリポの言葉を聞いたとき、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(46節)とナタナエルは否定的な態度を取るのです。それに対してフィリポは、ナタナエルと議論したり、説得したりしようとはせず、ただ、「来て、見なさい」(46節)と勧めるのです。実際に自分が見て、確かめることが一番確実で、手っ取り早いのです。私達も、友人を伝道するとき、「教会に来てみませんか?」と誘ってみるのが一番かもしれません。ナタナエルがイエス様のもとに行ってみると、イエス様は彼を見るなり、「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」(47節)と、褒められるのです。褒められて悪い気はしなかったことでしょう。しかし、その言葉よりも、もっとナタナエルを驚かせたのは、イエス様が、「あなたをいちじくの木の下で見た」と知るはずもないことを言われたことでした。ナタナエルはこの言葉で疑いが晴れ、イエス様を信じて、弟子のひとりとなっていったのでした。

 

【木・ニコデモの証し】

 

ヨハネ3章に、ファリサイ派に属し、ユダヤ最高法院の議員の一人であったニコデモがイエス様に会いにやって来る場面が書かれてあります。彼は、誰かに見つからないようにと、夜、ひっそりとやってきました。ニコデモは、「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」(ヨハネ32)と、イエス様が行なった数々の奇跡が、神のもとから来られた方であることを示すしるしであると言いました。旧約聖書に預言されたメシアであるとまでは信じていないようですが、少なくとも、神様の元から来られた特別な方であることは認めており、その点で他の有力者たちとは違っていました。イエス様は、さらに真理に目を開かせるために、ニコデモに聖霊によって新しく生まれる必要があることを教えます。洗礼者ヨハネが、「私の後から来る方は聖霊によってバプテスマを授ける」と言いましたが、まさにその経験をせよと言われたわけです。しかし、ニコデモにはちんぷんかんぷんだったようです。イエス様は、「なぜわからないのか」と叱られますが、私達はどうでしょうか。新しく生まれ変わる経験を求めているでしょうか。新しく生まれるとは、原語的には、源に帰るという意味があります。すなわち、人間の本来の姿に戻る、神様との正しい関係にたち帰るということです。そして、それを可能とする力こそが、聖霊なのです。

 

 

 

 

 

 


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