2024年安息日学校ガイド第4期 「ヨハネによる福音書」 |
2024年4期5課 サマリア人たちの証し
【日・出会いの舞台】
イエス様の弟子が洗礼者ヨハネの弟子よりも多くなり、より多くの洗礼を授けていることがファリサイ派の人々の耳に入りました。このことによって、ヨハネの弟子たちの間に妬みが生じたようです。ヨハネ自身は、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハネ3:30)と言っていましたが、無用な対立を避けるために、イエス様はユダヤを去り、再びガリラヤへと向かわれます。その際、サマリアを通ることになりましたが、サマリア人とユダヤ人とは交際しておらず、そのため通常であれば、迂回することが多いのですが、イエス様はあえて、サマリアに入って行かれました。イエス様がシカルにあるヤコブの井戸のそばで休んでいると、真昼時、一人の女性が水汲みにやってきました。イエス様はこの女性に、「水を飲ませて下さい」と声をかけます。イエス様が彼女に、親切を提供しようとすれば、断られたかもしれません。しかし、逆に親切を求めることで、心を開かせたのです。信頼心は信頼心を呼び起こします。この声かけから、この女性の救いの始まるのでした。
【月・井戸の女】
イエス様は、「水を飲ませて下さい」とお願いした女性に対し、突如、「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」(ヨハネ4:10)と言われました。ここでイエス様は3つの重要な言葉を語っています。①「神の賜物」②「イエス様が誰であるか知ること」③「生きた水」。これら三つの言葉が一つとなって意味をなします。つまり、イエス様が救い主であることを知ったなら、生きた水としてたとえられる神様からの贈り物を願い求めるようになり、それは与えられるということです。では、「生きた水」とは何でしょうか。イエス様はヨハネ7:37,38で、次のように言われました。
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
ヨハネは、ヨハネ7章39節で、次のように解説しています。
「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである」
生きた水とは、聖霊のことだったのです。イエス様はサマリアの女性に、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4:14)と続けられました。この言葉は彼女を惹きつけました。
【火・「主よ、その水をください」】
サマリアの女性は、イエス様が乾くことがなく、泉のように湧きあがり、永遠の命に至る「生きた水」について話されると、すぐにそれが欲しいと思いました。この求める心が救いの扉を開く鍵です。「求めるものに聖霊を賜らないことがあろうか」(ルカ11:13)と主が言われた通り、必ずその願いはかなえられます。そして、ニコデモに語られたように、聖霊が下るとき、人は新しく生まれ変わることができるのです。具体的には、「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる」(エゼ36:25~27)、ということが起こります。つまり、罪の生活から離れて、清い生活、神の御心を生きることが喜びとなっていくのです。サマリアの女性にとって、この時、新しく生まれ変わることの障壁となっていたのは、異性問題でした。次々に夫を変え、常に男性に頼って生きてきたのです。イエス様は「あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われたのは、この彼女がかかえる問題と向き合う必要があったからです。こうして、聖霊の導きの中で、彼女は新しく生まれ変わろうとしていたのです。
【水・イエスの啓示】
イエス様は、「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」と指摘されました。知るはずのない事実を指摘され、サマリアの女性は、「主よ、あなたは預言者だとお見受けします」と、自分に都合の悪い話題を変えようとします。そして、サマリア人とユダヤ人との宗教論争であった、神を礼拝するべき正しい場所はどこなのかという問題について尋ねます。ユダヤ人たちはエルサレムこそ神を礼拝するにふさわしい場所だと主張しているのに対し、サマリア人たちは先祖代々、ユダヤ教と異教が混合する形で、彼らが住んでいる山で礼拝をささげてきました。このように無理やり話題が変えられたわけですが、イエス様はこの質問を無視せずに答えられます。それが彼女の目を真理へと開かせるものとなることをご存じだったからです。イエス様は礼拝する場所は重要ではない。神様は霊であるから物理的な場所に支配されない。むしろ重要なことは、真の礼拝者となること、すなわち、礼拝している神様を正しく理解し、霊と真理をもって礼拝することだ(ヨハネ4:21~24参照)と教えられたのでした。サマリアの女性はこの言葉に対し、「私はキリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています」と応じると、イエス様は間髪入れず、「それは、あなたと話をしているこの私である」(4:26)と答えられたのでした。彼女はどれほど驚いたことでしょう。彼女の驚きは、アンデレがペテロに、フィリポがナタナエルに伝えたように、すぐに町に戻って、行きかう人達に、「いま、メシアにあったかもしれない」と伝えたことの中によく現わされています。
【木・サマリア人たちの証し】
イエス様は、ご自分がメシアであることを、ユダヤ人たちにはほとんど示されなかったことを考えると、サマリアの女性にご自分がメシアであることを示されたのは不思議です。おそらく、サマリアへの伝道が限られていたであろうことと、サマリア人たちが、ユダヤ人の指導者たちのような頑なな態度をとらないことを、イエス様は知っていたからかもしれません。サマリアの女性は、イエス様がメシアであると告げられると、水をくむことも忘れて、町に飛んで帰り、行きかう人々に「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」(4:29)と伝道します。すると、サマリアの人々は次々にイエス様に会いに来て、信仰をもったのでした。サマリア伝道の成功は、後に、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こったとき、多くのクリスチャンたちを助けることになりました。彼らは、迫害の中で、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされていったわけですが、その際、サマリアにすでにキリストを信じていた人たちがいたことによって助けられたのです。イエス様はこのことをご存じの上で、サマリアを通られたのでしょう。
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