2024年安息日学校ガイド第4期 「ヨハネによる福音書」 |
2024年4期6課 イエスについてのさらなる証
【日・魂の謙虚さ―再び証しするバプテスマのヨハネ】
バプテスマのヨハネの弟子たちがヨハネのもとに来て、「あなたが証しされたあの人(イエス様)が、バプテスマを授けています(実際はキリストの弟子が授けていた)。みんながあの人の方へ行っています」(ヨハ3:26)と言いました。この言葉には嫉妬が見え隠れします。すると、ヨハネは『私はメシアではなく、あの方の前に遣わされた者だ・・・花嫁(クリスチャン)を迎えるのは花婿(キリスト)だ。花婿の介添え人(ヨハネ自身のこと)は立って耳を傾け、花婿の声を聞いて大いに喜ぶ。だから、私は喜びで満たされている。あの方は必ず栄え、私は衰える」と言い、主役はあくまでもキリストであり、自分はその介添え人のような者だと謙遜さを表しました。介添え人とは、新郎新婦の結婚がスムーズに運ぶようにする人のことを言いますが、ヨハネは、自分は人々を救い主イエス様と引き合わせ、結婚(キリストと一つに)させるためにいるのだと言っているわけです。また、この介添え人を「友」と訳している聖書もあり、キリストの友として、介添えをしているのだと言うこともできます。もちろん、ヨハネ自身もキリストの花嫁の一人です。それと同時に、介添え人でもあるのです。キリストに救われ、キリストと一つとなった者は、今度は介添え人、そしてキリストの友として、他の人をキリストに結び合わせる役割(伝道)があるということです。
【月・メシアについての新たな理解】
イエス様がヨハネから洗礼を受けられたとき、天が開き、神の霊が鳩のように降ってきて、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえてきました(マタイ3:16、17)。この出来事は周りにいた人々を大いに驚かせたことでしょう。とりわけ、バプテスマを授けたヨハネにとってはそうだったに違いありません。なぜなら、主が『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』と告げていたからです。そのお告げの通りの出来事を目撃し、キリストこそ、聖霊のバプテスマによって人を新しい人へと生まれ変わらせるために天から遣わされた神の御子なのだと確信したのです。そのとき、ヨハネの心にあったのは、イザヤの『彼は...ほふり場にひかれて行く小羊のように』(イザヤ53:7)という言葉でした。多くの人たちが、強い王としてのメシアを待望している中、ヨハネは小羊のように人間の罪のために死んでいく姿を、メシアなるキリストの中に見ていたのです。
【火・受容と拒絶】
多くの弟子たちがイエス様のもとから離れ去り、もはや共に歩まなくなってしまう出来事が起こりました。それはイエス様が5つのパンと2匹の魚で5000人以上の人々を食べさせた奇跡の後に起きました。パンを食べて満足した人たちに対してキリストは、本当に必要な命のパンについて語ります。
「ご自分は天から降ってきた命のパンである…わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(6:35~54)
このショッキングな言葉を、理解することは簡単ではありませんでした。事実、この言葉がきっかけとなって、多くの弟子たちがイエス様から離れていくことになったのです。イエス様は12弟子たちに、「あなたがたも離れて行きたいか」と尋ねられます。すると、ペトロは、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(6:68,69)と答えます。ペテロたちとて、イエス様が言われたことを、すべて理解できたわけではないでしょう。しかし、それでもイエス様を信じたのです。真に信じるとは、自分たちの理解を超えることがあったとしても、それでもイエス様を信じていくことです。やがて時が来れば、目が開かれて、今まで見えなかったものも見えるようになっていくでしょう。
【水・父なる神の証し】
バプテスマのヨハネはイエス様を証したわけですが、しかし、イエス様は「わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある」と言われました。それは、イエス様が行っている業そのものが、ご自分が天から遣わされたことを証ししているということでした(ヨハネ5:36)。確かに、イエス様が行なわれた数々の奇跡は、人間の能力をはるかに超え、それ自体がイエス様が天の神様から遣わされた方であることを証していたのです。また、父なる神様は、イエス様がどのような方であるかを直接証されることもありました。たとえば、イエス様がバプテスマを受けられた時、はとのような聖霊が下り、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と語りかける父なる神の声がありました。また変貌の山でも、「これはわたしの愛する子、これに聞け」(マルコ9:7)との声がしました。さらに、イエス様の十字架の時が近づいてきたとき、再び天から「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」(ヨハネ12:28)という父なる神の声が聞こえてきたのでした。
【木・群衆の証し】
祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエス様は立ち上がって大声で、「渇いている人はだれでも、私のところに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ7:49、50)と言われたことによって、群衆の間にイエス様について、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、「この人はメシアだ」と言う者、また、「メシアはガリラヤから出るだろうか」と言うものなども現れて、対立が起こります。このことを下役が、祭司長たちや議員、ファリサイ派の人々に伝えると、彼らはキリストを受け入れることができず、群衆たちは惑わされているのだ、いや、律法も知らない彼らは、呪われているのだとさえ口にする始末です。すると、一人の人物が立ち上がるのです。それはかつて、夜、一人でイエス様を尋ねたニコデモでした。彼は、「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」(ヨハネ7:51)と言って、イエス様を擁護したのでした。いずれにしても、イエス様はどなたなのかということで、町が二分するような状況となったのでした。イエス様はどなたなのか、この問はイエス様の時代だけでなく、いまもなお、最後まで続く大切な問なのです。
(C)2010 NAGOYA SDA CHURCH