2024年安息日学校ガイド第4期 「ヨハネによる福音書」 |
2024年4期7課 信じる人は幸いである
【日・アブラハムを思い起こさせる】
「わたしたちの父はアブラハムです」と言うユダヤ人たちに対して、イエス様は「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである」(ヨハネ8:56)と言われました。ユダヤ人たちにとってアブラハムは民族の父としてあがめられ、最も尊敬されていました。そのアブラハムがイエス様を見ることを楽しみにしていたのだ。そして、イエス様を見て喜んだのだとイエス様が言われたのもだから、そこにいたユダヤ人たちは驚きを隠せませんでした。さらに彼らを驚かせたのは、「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』(8:58)と言われたことでした。『わたしはある』という表現は、モーセに示された神の名です。そして、このように言われたことによって、イエス様はご自分がアブラハムを導いた主であることを示されたわけです。しかし、これを聞いたユダヤ人たちは怒り、全く受け入れることができませんでした。
【月・マリアの証し】
過越祭の六日前に、「マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエス様の足に塗り、自分の髪でその足をぬぐ」いました(ヨハネ12:3)。この大胆な行動に、そこにいた人たちはびっくりしたことでしょう。勿体ないと注意する弟子もいました。しかし、彼女の行為はイエス様に対する愛の表れでした。そして、無意識のうちにイエス様に対する葬りのための行為ともなっていたのでした。だから、イエス様は彼女の行為をうれしく思い、「この人のするままにさせておきなさい」と言われたわけです。イエス様のためにしたことが、周りの人からは、「なぜそのようなことをするのですか」と批判されることがあるかもしれません。しかしイエス様は、ご自分に対する愛から出る行為を、すべて喜んで下さいます。
【火・ピラトの無意識の証し】
ヨハネは、イエス様がキリストであられることを証しするために、さまざまな立場の多くの証人の証言を記してきました。そして今、ヨハネは、イエス様を裁いた総督ピラトを証人として招きます。ピラトはローマ人であり、総督であり、裁判官であるため、これまでの証人とは全く異なる立場からの証言は非常に重要です。イエス様は早朝突然、ピラトのもとに連れられてきました。ピラトにとっては迷惑な話だったに違いありません。この面倒な事案をさっさと片付けてしまいたいと思ったことでしょう。ところが、これまで見てきた多くの死刑囚とはまるで違うイエス様の雰囲気に注意がひかれます。そこで様々な尋問を試みると、イエス様は「わたしの国は、この世には属していない」(ヨハネ18:36)とか、「わたしは真理について証しをするために生まれ」た(18:37)など、不思議な返答をされるのです。ピラトは尋問のあと、こう言いました。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。」(18:39)。異邦人であるローマ総督の客観的なイエス様についての証言は、「何の罪も見いだせない」だったのです。しかし、それにもかかわらず、イエス様を死刑に処したのは、保身のためでした。
【水・トマスの証し】
復活したイエス様が弟子たちの前に初めて現れたとき、そこにトマスはいませんでした。トマスは言いました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(ヨハ20:25)。この言葉の中には自分だけお会いできなかったことに対するやっかみがあったのかもしれません。ヨハネによる福音書が反論するのは、「見てから信じる」というこの態度です。しかしイエス様は、そのあとトマスにも会ってくださり、来て、見て、触れなさいと、トマスの気持ちに合わせて下さるのです。そのうえで、最後に、「見ないのに信じる人は幸いである」(ヨハ20:29)と付け加えられたのでした。トマスの願いをかなえてくださるイエス様のやさしさを感じます。トマスはこの出来事を通し、自分自身を恥じたに違いありません。そしてその後の信仰の歩みに大きな影響を与えたことでしょう。
【木・イエスに関する私たちの証し】
「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(ヨハ20:30、31)
ヨハネは、自分が福音書を書き残すのは、後世の人々が、「イエス様は神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエス様の名により命を受けるため」でした。ヨハネ福音書の中には、数多くのイエス様と出会った人たちの証が登場します。それを通して、聖霊の働きにより、私達はイエス様のお姿を絵に描くことができるわけです。また、現代生きる私達も、まだイエス様を知らない人達に、イエス様を証するものとなりたいと願います。聖書の預言の成就のように、聖書の時代の人々が知らない、現代に生きる私達が証できることもあります。そのような新たな証を加えることで、より一層キリストがありありと描かれることでしょう。そして何よりも説得力のある証は、私達一人ひとりの姿を通してイエス様のお姿が表されることではないでしょうか。
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