2024年安息日学校ガイド第4期 「ヨハネによる福音書」 |
9課「命の源」
日曜日 11 月 24 日 言の内に命があった
「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」ヨハネ1:4
言、すなわちイエス・キリストの内には命があります。それは神の命であり、何にも由来しない、永遠に自存しているものです。キリストは、ご自分の内に命を持っておられるので、その命を捨て、再び取り戻し、さらに、ご自分が望む人に与えることがおできになります。また、この神の命は救いと結びついており、私たちが救われるとは、この神の命が与えられることを意味しています。そして、キリストが人として地上に来られたのは、「その名を信じる人々に神の子となる資格を与え」(ヨハネ1:12)られ、「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためであ」(ヨハ3:14、15)りました。またキリストは、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」(ヨハ10:10)と言われましたが、この「豊かに」という言葉は、「想像を超えた」「思いもよらなかった」という意味のある言葉が使われています。
月曜日 11 月 25 日 永遠の命の言葉
イエス様が5000人への給食をしたあと、その流れの中で、ご自分が「命のパン」であると言われました。それを聞いた人々の多くが、「これは酷い話だ」と言ってイエス様から離れていきました。イエス様は弟子たちに向かって、「あなたがたも離れて行きたいか」と尋ねられと、ペトロは、「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」(ヨハ6:68)と答えました。イエス様が語られるひとつひとつの言葉の中に、永遠の命があるのをペトロは感じとっていました。「永遠の命」という言葉、あるいはそれに相当する言葉が、ヨハネの福音書に少なくとも17回登場します。この言葉は、私たちの救いと存在している意味をもたらします。つまり、主が戻られるときに死者は復活し、終わりのない命をもたらすことを意味しているのです。それはまさに、人類がかつてエデンで持っていた命の再生です。
火曜日 11 月 26 日 信じることと新たに生まれること
ヨハネが福音書を書いたのは、私たちがイエス様を信じて、永遠の命を得るためでした。ヨハネ1:12、13では、この過程が二つの段階で説明されています。第一に、私たちがイエス様を信じ受け入れること。第二に、イエス様が私たちに神の子となる権威と力を与えてくださるということ。これをヨハネは、神によって生まれると述べています。このことからわかることは、神の子となり、永遠の命に生きるものとなるには、人間的な側面と神様からの側面の二つがあるということです。とはいえ、その私たちの信仰も、神の言葉を聞くことによってもたらされる神の賜物です。(ロマ10:17)。そのとき、聖霊が人間の心に働きかけ、教え導き、神様に対する信仰を生み出してくれるのです。
「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなた方は…神の子とする霊を受けたのです」(ローマ8:14,15)
水曜日 11 月 27 日 命の源を拒絶する
「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった......言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(ヨハ1:5、10、11)。
イエス様は、ご自分の多くの民に拒絶されました。イエス様が拒絶されたのは、人々が彼の言葉を受け入れることができなかったからでした。イエス様を目の前に見ながら、受け入れることができなかったのです。それも当然といえば当然で、イエス様はこれまでの常識や考えを覆すようなことを言ったり、誰も見たことも聞いたこともない神の国について語られたからです。しかし、彼らの先祖たちも似たようなものであったことが、民数記13:23~33のカナンの偵察の物語からわかります。神様がイスラエルに与えてくださると約束してくださったカナンの地に偵察にいった12人の斥候たちが戻ってくると、異なる二つの報告をするのです。カナンの地が肥沃な素晴らしい地であることには異論はなかったのですが、そこに住んでいるカナン人が凶暴で、非常に強く、町も大きな城壁で囲まれていて、とても占領できるようには思えないというのが大方の意見でした。これは常識的な考えでした。それに対して、ヨシュアとカレブの二人は、神様が与えてくださると約束してくださったのだから、恐れる必要はないと主張しました。両者の違いは神様の言葉を信じるか、信じないかという信仰の違いであり、結局、イエス様が地上に来られたときに、多くの人々が信じ受け容れることができなかったのと同じなのです。そして、キリストは、『人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか』(ルカ18:8)と言われていることを、現代に生きる私達は肝に銘じなければなりません。
木曜日 11 月 28 日 裁き
「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである......悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」(ヨハ3:18、20、21)。
裁判の結果、有罪・無罪のどちらかに分かれるように、聖書の裁くという言葉には、二つに分けるという意味があります。イエス様が救い主としてこの世に来られたとき、イエス様を信じる者と信じない者とに、まず分かれることになりました。前者は光である主のもとに来て、主の御心を生きることが喜びとなるのに対して、後者は光を恐れ、避けるようになり、主なる神ではなく悪魔に近づき、悪魔の思いを生きるようになっていきます。これが「信じない者は既に裁かれている」という意味です。右に行くのか、左に行くのか、人間は自由意志で選ぶことができます。このときサタンは自分の側に来るようにと誘惑してきます。それはもう一方の聖霊の働きよりも強く感じる人は多いことでしょう。それはサタンの誘惑が、罪びとの肉の思いに働きかけてくるものだからです。しかし、最後にたどり着く世界が、一方は永遠の命であるのに対して、もう一方は永遠の滅びであることを忘れてはなりません。
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