2024年安息日学校ガイド第3期
 「マルコによる福音書」

202434課 たとえ話

【日・「種を蒔まく人」のたとえ】

 

イエス様は数多くのたとえ話を通して真理を教えています。マルコ419節にかけて「種を蒔く人」のたとえ話が出てきますが、このたとえ話は、他のたとえ話ではあまり見られない、イエス様がその意味を弟子たちに語られているという点でユニークです。その内容は、種を蒔く人が4つの異なる場所、「道端」「石だらけで土の少ない所」「茨の中」そして「良い土地」に種を蒔きます。良い土地に蒔かれた種以外、鳥に食べられてしまったり、枯れてしまったりで、実を実らせるまでには至りません。それに対して、良い土地に蒔かれた種は、通常の三十倍、六十倍、百倍にもなります。普通では考えられないほど豊かで祝福に満ちた人生を送ることができる。これが神様を信じる人たちの世界なのです。

 

【月・イエスの解釈】

 

マルコ413節以降で、イエス様は種を蒔く人のたとえの意味を解き明かしていきます。蒔かれた種とは「神の言葉」であり、異なる4種類の土は、異なる種類の人々を指していると示されました。そして、同じみ言葉を聞いても、そのみ言葉がそれぞれに及ぼす影響と結果は異なるということを、このたとえは表していました。具体的には、道端に蒔かれた種は、すぐに鳥に食べられてしまいます。これはせっかく真理のみ言葉が蒔かれても、サタンがすぐにやってきて奪い取ってしまうことを表しています。石だらけの土に蒔かれた種は、しっかりと根付かないので、最初は喜んでも、途中で試練があると信じるのを止めてしまい人のことを表しています。茨の中に蒔かれた種は、茨が種を覆い塞いでしまうため、成長が阻害され実ることがありません。この茨は、人生の思い煩いやこの世の誘惑をあらわしています。良い土地に蒔かれた種は、御言葉を聞いて受け入れる人々をあらわしています。彼らはやがて驚くほど成長して、豊かな実を実らせます。多くの人は、この良い地に蒔かれた種のような人生を送らなければならない。決して実ることのない他の三つの場所のようであってはならないという気持ちにさせられることでしょう。しかし、素朴な疑問も生まれます。それは、なぜ種を蒔く人は、実りが期待できない場所にまで種を蒔いたのだろうかということです。そもそも種を蒔く人とは、誰のことを指しているのでしょうか。それはイエス様ご自身のことをさしているのです。イエス様はすべての人にみ言葉の種を蒔いてくださるお方だということなのです。道端でも石地でも、あるいは茨の中でも、そこにも人がいる。その人たちをお見捨てにはならないのです。そんなイエス様の人類に対する愛を、このたとえ話は一方で教えているのです。考えてみれば、初めから良い土地の人ばかりではないのです。私達も初めは道端だったかもしれないし、茨が覆うような環境だったかもしれない。それでもこうしてみ言葉をつかみ、み言葉を信じたとき、主はその場所から良い土地に移し替えて下さったのです。

 

【火・たとえで教えられる理由】

 

マルコ41112節「そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ためである。」

 

通常、たとえというのは、話の理解を深めるために、あるいは分かりやすくするために用いられます。神の国の神秘は、神を信じ、聖霊に導かれなければ理解することができません。聖書の専門家であるはずのファリサイ派や律法学者たちは、その信仰が形骸化し、神様の御声に従って生きていないために、イザヤ6910に書かれているように、『彼らが見るには見るが認めず、聞くには聞くが理解できず』という状態にありました。だから、イエス様はたとえで真理を語られたのです。ストレートにではなく、たとえを語ることによって、深く考えさせられたのです。ところで、新共同訳は12節の最後の部分を「『立ち帰って赦されることがない』ようになるためである」と訳していますが、これだと意味が分かりにくく、新しい聖書協会共同訳の「立ち帰って赦されることがない』ためである」と訳した方がわかりやすいです。

 

水・「ともし火」と「秤はかり」のたとえ

 

マルコ421節「また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。」

 

「ともし火」のたとえでは、この「ともし火」がなんであるのかを理解することがまず重要です。続く22節を見ると、それは「隠れているもの」であり、「秘められたもの」であることがわかります。また、11節の「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」と言われたことの続きであると理解するならば、「ともし火」は「神の国の秘密」であると察しがつきます。神の国の秘密は、たとえという形でしか語ることができないほど、今は隠された状態、秘められた状態、つまり理解できない状態にありますが、しかし、それを隠したままにしておいてはならない。然るべきときに、神の国の秘密はあらわにされ、公に宣べ伝えられなければならないということを、この「ともし火のたとえ」の中で教えているのです。教会は燭台で象徴され、神を信じる者たちは世の光と言われています。神の国の神秘を明らかにするのは、教会、神を信じる者たちにゆだねられているのです。

 

マルコ42425節「また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」

 

神の国は神秘であり、私達の想像をはるかに超えた世界です。それがわかっていながら、私達は自分が理解できる範囲内でしか、信じようとしない傾向があります。ある釣り人が、もったいないことに大きな魚は海に戻し、小さな魚だけを持ち帰ろうとします。友人がなぜそんなことをするのかと尋ねると、「家のフライパンの大きさに合わせているのさ」と答えました。同じように、自分の信仰の量る秤が小さいと、神様の力も小さくしか信じることができません。その結果、神様の恵みもその程度しか与えられないばかりか、やがて信仰を失って、今まで持っていたものまで失ってしまう危険があるということを、このたとえを通してイエス様は教えられたわけです。

 

【木・「成長する種」のたとえ】

 

マルコ42629節「また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

 

この箇所は、マルコ独自のもので、種を蒔く人のたとえにおける、良い地に蒔かれた種がどのように豊かな実を実らすのか、その仕組みについてたとえたものです。結論から言えば、それはすべて神の業であり、私達にとっては不思議なことなのです。しかし、そこで話は終わらず、収穫の時が来ることにも私達の目を向けさせています。それは私達の救いと直結しています。

 

マルコ43132節「更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

 

「神の国は近づいた」とイエス様は伝道の第一声で宣言されました。最初は小さな始まりでも、やがてどんどん大きくなって、全世界に広がっていくであろうことを、からし種の成長にたとえています。確かに、その通りとなったのが、私達が生きているこの現代です。収穫の時はもうすぐです。

 

 

 

 

 

 


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