2024年安息日学校ガイド第3期
 「マルコによる福音書」

202435課 湖の周辺での奇跡

 

【日・嵐を静める】

 

近年、世界中で自然災害が猛威を振るっています。その中でも日本は世界有数の自然災害発生国として知られています。世界で起こったマグニチュード6以上の地震の18.5%が日本で起こり、全世界の活火山の7.1%が日本にあります。また、世界の災害で死亡する人の1.5%が日本、世界の被害金額の17.5%が日本での被害金なのです。私達は自然には勝てないということを、身をもって学んできました。だからこそ、弟子たちのイエス様に対する次の言葉は衝撃的なのです。

「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」マルコ441

突然の突風に小舟が波にもまれる中で、イエス様が風をお叱りになると凪になってしまいました。そのとき、弟子たちは驚きのあまり、このように言ったのです。もし自然の猛威は誰も止めることができないと考えるならば、それは正しくはありません。神様は自然をすべてコントールしておられるからです。「水は山々の上にとどまっていたがあなたが叱咤されると散って行き、とどろく御声に驚いて逃げ去った…あなたは境を置き、水に越えることを禁じ、再び地を覆うことを禁じられた」(詩篇10469)とある通りです。

 

【月・叫び声よりもささやきが聞こえますか】

 

マルコ51節から20節にかけて悪霊に取りつかれたゲラサ人の男を救う奇跡物語が書かれています。彼は墓場に鎖につながれ、昼も夜も叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていました。ここからわかることは、彼は社会から完全に疎外され、尊厳もなく、危険人物として虫けらのように扱われていたということです。しかし、イエス様はそのような者の叫びを聞かれ、救うために近づいていかれたのです。現代でも、孤独や疎外感を感じながら、さみしく生きている人は少なくありません。ゲラサ人の男の救いの物語は、現代人にも当てはまる要素が少なくないのです。

また、このゲラサ人の物語を独特なものにしているのは、彼の中にたくさんの(レギオン)悪霊が住んでいたという点です。イエス様はその悪霊を追い出し、豚の中に入るように命じると、悪霊は言われたままに豚の中に入り、その豚は狂ったように自ら崖から落ちて死んでしまいます。この実に不気味な出来事は、実際に起きたことであり、私達は現実のこととして受け止めなければなりません。すなわち、悪霊が人に取りつくことがあるということです。それに対して、イエス様には悪霊を追い出す力があり、私達にも大宣教命令の中で、悪霊を追い出す権能が授けられていると言われました。

 

【火・感情の浮き沈みをイエスと味わう】

 

21節からは12歳のヤイロの娘と12年間長血に苦しんできた女性を癒す二つの物語が、再びサンドイッチ構造で記されています。一刻を争う状況のヤイロの娘のところに向かっていたイエス様の足を、12年間不正出血に苦しんできた女性が止めます。彼女は何をしたのでしょうか。彼女はイエス様の後ろから近づき、ただその衣のふさに触れただけです。彼女は、そうすれば癒されると思ったのです。12年間もの間、色々な医者のところに行って治療を試みて、財産もすっかり使い果たしてしまった彼女が、イエス様の衣に触れたら癒されると信じたのです。そして、その通りになったのです。イエス様は「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(マルコ534)と言われました。この物語からわかることは、信仰はこうでなければならないというものではないということ。衣のふさに触れたら癒されると彼女が信じたので、神様はその信じた通りになさったのです。疑わないで信じるとき、神様から力を引き出すのです。しかし、その喜びもつかの間、ヤイロの娘は死んだとの知らせが入ります。すると、すぐにイエス様はヤイロに対してこう言い放つのです。「恐れることはない。ただ信じなさい」(マルコ536)と。何と力強い言葉でしょうか。恐れず、ただ信じること。これだけが究極の状況の中で、主が私達に求められることなのです。そして、そのあとヤイロはイエス様のあとについていきます。ここも重要な点です。恐れるなと言われても恐れてしまうのが人間です。ただ信じろと言われても、簡単に信じられるものではありません。しかし、それでもイエス様だけを見つめて、ついていくのです。その結果、娘が生き返るのを目の当たりにするのです。私達も恐れることがあるかもしれないし、信じきれないかもしれません。それでもイエス様についていくものでありたいと思います。

 

水・拒絶と受容

 

6章に入りますと、イエス様は弟子たちを連れて故郷ナザレに帰り、他の場所と同様に、会堂で教え始められます。すると、その教えに皆驚くのですが、小さい時からイエス様のことを知っている人たちは、弟子たちを大勢引き連れて帰ってきたイエス様を、素直に受け入れることができなかったようです。素直で優しい少年だったころの姿と、神の一人子、メシアとしての自覚と権威をもって戻ってきたイエス様とのお姿に、あまりにも大きなギャップを感じたのかもしれません。7節からは、12弟子を2人ずつ組にして伝道に遣わす場面に移ります。ところが途中からバプテスマのヨハネがヘロデによって首をはねられ殺されてしまう場面に変わり、その後再び弟子たちが宣教から帰って来る場面に戻ります。マルコ3回目のサンドイッチ構造です。バプテスマのヨハネの響き渡る声が沈黙するのと同時に、十二使徒がヨハネと同じように、悔い改めを宣言し始めたことが効果的に描写されています。

 

【木・異なる種類のメシア】

 

イエス様は宣教旅行から帰ってきた弟子たちを休ませるために、舟で人里離れた場所にわたります。ところが、そのことを知った大勢の人たちが、イエス様のお話を聞きたくて、陸路を先回りしてイエス様を待っていたのです。そんな人々に対し、イエス様は「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れ」(マルコ634)まれます。これがイエス様の心なのです。真理に飢え乾くものたちを、そのままにはしておかれることはないのです。それは霊的な面だけでなく、肉の面においても同じでした。お腹をすかしたまま帰すわけにはいかないと、弟子たちに何か食べ物を与えてあげなさいと言われます。その数は男性だけで5000人。食べさせてあげなさいと言われても、現実的には無理な話でした。ただ弟子たちは、お金も食べ物も持たずに宣教に遣わされて、たくさんの奇跡を経験して帰ってきたばかりでしたので、ここでも何かが起こるかもしれないという期待感はあったのではないでしょうか。弟子のひとりが、イエス様のもとに、5つのパンと2匹の魚が持ってきます。すると、そこから5000人の食事を生み出す驚くべき奇跡へと発展していくのです。私達の手の中にあるものはわずかかもしれません。しかし、主がそれは何百倍にもして、用いて下さることを信じましょう。

 

 

 

 


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