2024年安息日学校ガイド第3期 「マルコによる福音書」 |
2024年3期6課 人の本性から出てくるもの
【日・人間の言い伝えと神の命令】
旧約時代、祭司たちは「臨在の幕屋に入る際に、水で(手足)を洗い清める」(出エジ30:20)必要がありました。それは「死を招くことのないため」でした。やがて、この儀式的に手を清めるという行為が民衆の間にも広まるようになり、それが食前の手洗いになりました。ところが、弟子たちの中に、手を清めることをしないまま食事をするものがいるのを見て、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」(マルコ7:5)と問うのです。イエス様は、この質問に直接答える代わりに、イザヤ書29章13節の『この民は口先では私を敬うが、その心は私から遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしく私をあがめている』を彼らにあてはめて引用し、「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」(マルコ7:8)と、逆に質問者たちを責められました。たとえば、「父母を敬え(大切にせよ)」と律法にはあるのに、お金や食べ物を、「それは神への供え物(コルバン)だ」と言えば、父母に与えなくても良くなる(自分のためには使える)と言っている。つまり、自分たちの都合で作った決まりごとを利用して、律法の教えである父母を助けることをしないと指摘されたのでした。このような偽善と、神様の教えを第一としないことを、イエス様は強く責められたのでした。私達も教会の伝統や文化を重んじ、聖書の教えが後回しにしてしまうことのないように注意したいものです。
【月・きれいな手か、きれいな心か】
食前に儀式的な意味で手を洗い清めることが重要だと考えていた律法学者やファリサイ派の人達に対して、イエス様はさらに「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」(マルコ7章15節)と続けられました。これは、レビ記11章の食物規定(コシェル)で教えられている汚れた食べ物を食べる者は、そのことによって汚れていると考えられていたその考えが間違っていること示すものでした。ここでイエス様は、真に汚れるとは何かを教えようとされたわけです。まずイエス様は外から体内に入る食べ物が人を汚すことはないと言われました。そして、「食べ物が人の心の中に入ることはないし、最終的には対外に排出される」と続けられます。この言葉から、心の中が重要だということがわかります。そして、こう言われたのです。
「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」マルコ7:20~23
このような悪に満ちた思いが行動となって表れてくるとき、その人は汚れた者、清き神と遠い存在となります。なお、この一連のやりとりにおいて、イエス様はレビ記の食物規定を否定したわけではありません。あくまでも、真の汚れとは何かを教えられたのです。
【火・犬のためのパン屑】
悪霊に取りつかれ苦しんでいる幼い子どもを持つシリア・フェニキアの生まれのギリシア人の女性がイエス様のもとにやってきて、「娘から悪霊を追い出してくださいと頼」みます。すると、イエス様は、「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」(マルコ7:27)と答えられるのです。子供たちとはユダヤ人のことを指しています。つまり、ご自分はユダヤ人たちのために来たと言われたわけです。一見、異邦人の女性に対して冷たい言葉に聞こえますが、実際にはそうではありません。異邦人でありながら、ご自分を訪ねてきたこの女性の信仰をうれしく思っていることが、その言葉のはしはしに見受けられるからです。イエス様は「まず子供たちに…」と言われました。ということは「次に」があることを予感させます。そして、この女性のことを「子犬」と呼んでおられます。軽蔑の象徴である野良犬ではなく、家で飼われているような小さなかわいい子犬と呼ばれたのです。この女性は、イエス様が決して自分を拒んでおられないことを感じ取り、知恵とユーモアを交えるかのように、「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」(マルコ7:28)と答えるのです。イエス様はこの女性が、すぐに引き下がってしまうのか、それともあきらめないのか、彼女の信仰を試されたのです。そして、「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」(マルコ7:29)と言われたのと同時に、娘は癒されたのでした。
「彼女に対する態度によって、イエスは、イスラエルから社会ののけ者のようにみなされていたこの女が、もはや外国人ではなくて、神の家族の子どもであることを示された。天父の賜物にあずかることは、子どもとして彼女の特権である」(『希望への光』879ページ)
【水・回らない舌】
マルコ7:31~37にかけて、一人のろうあ者の癒しが記録されています。イエス様は、彼の両耳に指を入れ、それから唾をつけてその舌に触れられて、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ(開け)」と言われます。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになったのでした。ところで、イエス様が彼を癒される前に、「天を仰いで深く息をつき」とあります。イエス様はため息をつかれたのです。エレン・G・ホワイトは、これについて、「真理に向かって開こうとしない耳と、あがない主を告白しようとしない舌とを思って、ため息をつかれた」(『希望への光』881ページ)と解説しています。これは、このろうあ者の事だけを言っているのではなく、真理に耳を傾けようとしない人類に対するため息ではないでしょうか。聖書の中に、盲人の癒しや聴覚障がい者の癒しが多く記されているのは、私達も霊的な世界が見えるようになり、真理に耳が開かれる必要があることを象徴的に教えるためかもしれません。
【木・悪いパンに注意しなさい】
ファリサイ派の人々が天からのしるしを求め、議論をしかけました。しかし、そんな彼らをイエス様は嘆き、「今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない」(マルコ8:12)と相手になさいませんでした。疑い深い人達は、たとえしるしを見ても、決して信じることはないことを知っておられたからです。考えてみれば、しるしを見たから神を信じるようになったという人が、世の中にどれほどいるでしょうか。多くの人は、しるしなどではなく、神様の愛を知り、聖霊の不思議な導きによって信じるようになったのではないでしょうか。その後、弟子たちがパンを持って来るのを忘れてしまったエピソードが出てきます。イエス様はそのことから、「ファリサイ派とヘロデのパン種」、すなわち、彼らの間違った教えに気をつけなさいと言われます。ところが、弟子たちは自分たちがパンを忘れてきたので、文字通りのパンだと思い、パンを手に入れるときには注意しなさいと言われたのだろうと勘違いしたようです。それに対してイエス様はあきれたように、「まだ、分からないのか」と、5つのパンで5000人、7つのパンで4000人を養った時のことを思い出させます。つまり、パンが一つしかなくたって、イエス様は少しも心配もされていないということです。弟子たちと同じように、私達も聖書の教えをすぐに飲み込めないことがあるかもしれません。しかし、焦らずに、もう一度聖書から答えを求めていく習慣を身につけたいものです。
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