2024年安息日学校ガイド第4期
 「ヨハネによる福音書」

2025年1期1課 「神は喜んで愛される」

 

【日・合理的な期待を超えて】

 

イスラエルの民がエジプトを脱出した後、モーセがシナイ山に上っているわずかな間に、金の子牛を造るという大罪を犯したことがありました。十戒を授けられたばかりだったモーセは、ショックと義憤にかられ、十戒の板を山のふもとで砕き、そのあと、金の子牛の像を砕いて粉にして水に混ぜて飲ませ、偶像がいかに無力ものであるかを悟らせようとしました。さらに、今後も神様につかない者たちを殺すように命じて、3000人もの者たちが倒されました。その後、再びシナイ山に上り、「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」(出エジプト323132)と自らの命を犠牲にしてまで、民をとりなす祈りを捧げました。主はモーセに、「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る」(出エジプト記32 33節)と、神様の罪に対する原則を変えることはできないことを示されましたが、「しかし今、わたしがあなたに告げた所にこの民を導いて行きなさい。見よ、わたしの使いがあなたに先立って行く。しかし、わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する。」(出エジプト記3234節)と、民をカナンの地に導くという約束を反故にされず、罪に対する裁きを先延ばしにされたのでした。そして、「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」(出エジプト3319)と、神様の恵みと憐みとが、まだ残っていることを示してくださったのでした。モーセのとりなしは、まさにキリストの天でのとりなしを思い起こさせるものです。モーセのこの必死な姿にキリストの姿が重なるとき、いかに私達は罪を簡単にみているかと考えさせられます。

 

【月・報われぬ愛】

 

神様は預言者ホセアに、「行け、淫行の女をめとり、淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ」(ホセ1:2)と言われました。ホセアとその不実な妻をめとったことによって、どれほど悲しく辛い思いをさせられたことでしょう。神様は、ホセアを通して、神様ご自身もホセアのように、イスラエルの不誠実と霊的な姦淫によって、悲しんでいることを示されたのでした。そして、それにもかかわらず、神様の愛が、それを受けるに値しない人々に対して、惜しみなく降り注がれていることを教えようとされたのでした。神様は、「わたしは背く彼らをいやし、喜んで彼らを愛する。まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った」(ホセ14:5〔口語訳14:4)。と言われました。「喜んで彼らを愛する」という句の中の「喜んで」という言葉は、ヘブライ語の「ネダバー」を訳したもので、自発的にささげることを意味した言葉が使われています。「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」(出エジプト3319)とあるように、神様の愛は、強いられたものではなく、神自ら愛したいから愛するのだという、そのような一方的な愛なのです。

 

【火・喜んで与えられる愛】

 

「御言葉によって天は造られ、主の口の息吹によって天の万象は造られました」(詩編33 6)。神様が言葉を発せられると、すべてその通りになりました。それは圧倒的な創造の力です。では、なぜ神様はこの天と地を創造されたのでしょうか。「あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです」(黙示録411)とあるように、それが神様の御心だったからです。神様がそうしたいと思われたから、この世界は生まれたのです。それは神様の自由であり、何かそうせざるを得ない理由があったわけではありません。また、「万物は御子によって造られ、御子のために造られた」(コロサイ116節)とあるように、御子イエス様ご自身がご自分のために万物は造られたのです。その御子は、「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです」(ヨハネ1724)と祈っているように、天地万物を創造する前から、父なる神に愛されており、また父なる神様から賜った栄光を、私達に見せたいと願っておられることがわかります。私達被造物は、いかなる理由で創造されたにせよ、創造主に対して何かを言える立場にはありません。しかし、「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方」(黙示録411)と言って主を賛美するとき、この世界は神の栄光に包まれ、被造物は喜びに満たされるようになっているのです。

 

水・招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない

 

神の被造物として私達は、神様に栄光を返し、神様を賛美し、神様を愛するとき、それは神様の喜びとなります。しかし、そのことを神様は私たちに強要することはありません。私達に与えられている自由意志を通して、神様の愛に応えていくことを主は望んでおられます。このことは逆に、主の愛を拒む自由もあるということを意味しています。マタイ22章の王の婚宴のたとえは、そのことを教えています。王様の婚宴に多くの人が招かれたのですが、その王の婚宴をそれぞれの都合で拒むのです。たとえの中で、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」(マタイ22:14)と書かれてありますが、これが救いの現実です。神様はすべての人を招いておられますが、それに応えて救われる人はとても少ないのです。

 

【木・私たちのために十字架につけられる】

 

多くの人たちがイエス様の招きを拒むことは、イエス様の心を傷つけることでした。イエス様は「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」(マタ23:37)と言って嘆かれたのでした。しかし、それでも「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨て」(ヨハネ1018)られたのでした。驚くべきは、イエス様が自分の命をもって私達を贖う計画は、天地創造の前から決められていたことでした。それは、『長き世々にわたって、かくされていた奥義』(ローマ16:25)であったと聖書は記しています。多くの人が十字架の愛を拒むことをご存じの上で、それでも初めから決められていた通り、自ら十字架の道を歩まれたのです。

 


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