2025年安息日学校ガイド第1期
 「神の愛と正義」

 

2025年1期10課 「交戦規定」

 

【日・遅れた天使】

 

ペルシア王キュロスの治世第三年、ダニエルは神様からこれから起こることを示されますが、それを完全に理解することは困難なことでした。そこで断食をしながら3週間にわたって神様に祈るのです。すると、ティグリスの河畔にいたとき、突如、キリストが神々しいお姿で(黙示録1章でヨハネに現れた時のお姿と類似)ダニエルの前に現れるのです。しかし、その御声を聞いた瞬間、ダニエルは圧倒的な主の臨在を前に意識を失ってしまいます。その後、体を揺さぶられて目が覚めるのですが、そこにはキリストに代わって、天使(ガブリエルと考えられる)がいて、天から遣わされてきたと告げます。そして、ダニエルが祈り初めてすぐにダニエルのもとに遣わされたのだけれども、「ペルシア王国の天使長」によって3週間も「抵抗」され、すぐに来ることができなかったと言うのです。「ペルシア王国の天使長(君)」とは悪魔のことです。天使長(君)という言葉は、超自然的存在を表す言葉としてダニエルは使っているようです。私達が驚かされるのは、このようなことが、目に見えない霊的な世界で起きているという事実です。まさに、私達が祈っているその背後で、善と悪との霊的な闘いが繰り広げられているのです。このことはまた、すぐに祈りがきかれないことがある原因の一つとも考えられるでしょう。では、悪の勢力にはどれほどの力があるのでしょうか。全能者なる神は、悪の力に制限を与えていないのでしょうか。当然、神様の制限の中で、悪魔は動いています。SSガイドの著者は、それを「交戦規定」と表現していますが、その交戦規定の範囲内で、悪魔は動いています。それでもその力は人間にはどうすることもできないほどで、天使たちでさえ、天使長ミカエル(受肉前のキリスト)の助けが必要なほどなのです。

 

【月・黙示録の竜】

 

黙示録では、悪魔を竜と表現しています。竜は、神の民に直接戦いを挑む(誘惑する)だけでなく、時の権力者たちの背後で働き、この世界を支配しようとします。特に、海と地から上がってきた二つの獣に、「自分の力と王座と大きな権威とを与え」(黙132、12参照)ます。この二つの獣は、ローマ法王権とアメリカを表していると考えられますが、これは竜(悪魔)が、地上の宗教的権力と政治的権力を支配しようとするということです。しかし、悪魔には時間的な制限があります。

「このゆえに、もろもろの天と、その中に住む者たちよ、喜べ。地と海とは不幸である。悪魔は怒りに燃えて、お前たちのところへ降って行った。残された時が少ないのを知ったからである」(黙1212)。

悪魔は地上において大きな力を振るいますが、その悪の勢力の支配には、時間的な制限があるのです。そのことを悪魔も理解しています。だから、終わりが近づくほどに、悪魔は猛威を振るうのです。それと共に、この善と悪との闘いの勝者は初めから決まっています。悪魔は十字架によって自分の敗北が決定的になったことを知っています。いわば負け戦を戦いながら、1/3の天使を堕落させたように、一人でも多くの人間を道連れにしようと思っているのです。

 

【火・ヨブの場合】

 

ヨブ記は苦難の中にある人にとって大きな励ましとなる書です。しかし、ヨブ記は単に苦難の中の励ましを目的として書かれているのではありません。ヨブ記はまさに、神と悪魔との闘いの現実を教え、どのように神様を信じている者たちが、その戦いの中に巻き込まれていくのか、その一旦を見せてくれているのです。ヨブ記は、「ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」(ヨブ記11節)とヨブの人となりの描写から始まります。そして神様の祝福を受け、家族にも財産にも恵まれていました。このようなヨブに関する情報が示されたあと、突如場面が天の光景に変わります。主とその使いたちが集まっているところに、悪魔がやって来ます。すると、主は悪魔に、「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」(ヨブ記18節)と言います。それに対して悪魔は、それは神様がヨブを誰よりも祝福しておられるからであって、もしその祝福をヨブから取り上げたら、ヨブは神様を呪うでしょうと主張するのでした(同911節)。つまり、純粋な神への愛から、神様に従う人などいないというのが悪魔の主張です。そこで神様は「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな」(同12節)と言われるのです。制限をかけられたのは、ヨブの命には触れてはならないという一点のみでした。神様がいかにヨブを信頼していたのかがわかります。しかし、いくら神様の信頼を受けていたヨブとはいえ、これは壮絶な試練でした。このヨブの物語からわかることの1つは、神様と悪魔との闘いが、直接人間に及ぶことがあるということ。またその方法は、人間に神様への疑惑を持たせ、神様への忠誠心が試される形で繰り広げられることがあるということです。

 

水・この世の(一時的な)支配者

 

ヨハネ1430

「もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。」

 

聖書は悪魔をこの世の支配者、この世の神(コリント二44節)などと表現しています。それほど力と影響力があるということです。これは神様が悪魔に対して制限を設けつつも、この世の一時的な支配者となることを許しておられるということでもあります。同時にまた、神様ご自身も悪魔に対するご自分の力の行使を制限しているということでもあります。しかし、これまで学んできたように、これによって悪魔の本性と神様の愛が、全宇宙に明らかになるのです。ところで、Ⅰヨハ38に、「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです」とありますが、その方法は、神としての力の行使によるものではなく、十字架による愛によってでありました。御子が人として地上に来られたこと自体が、神の力の制限となっていたわけですし、父なる神様も、御子を助けるための力を制限されていました。それはイエス様が十字架上で、父なる神様から見捨てられたと感じるほどでした。また、現在においても、私たちがいつまでも、悪と苦しみが続いているのを目にしているのは、まだ神様がその力の行使を制限しておられるためです。この制限が真に解き放たれるのは、主のご再臨のときです。そのとき、全ての人の目は、その圧倒的な神様の力を目の当たりすることになるのです。

 

【木・制限と規定】

 

「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。」マルコ65

 

イエス様はすべての人々をお癒しになられたわけではありません。ある場所では、ごくわずかの病人にしか奇跡を行うことができませんでした。それは癒される側の信仰の有無が問われるからですが、そのことは同時に、信仰や祈りに関連する、何らかの制限や交戦規定が存在しているということでもあります。本来、神様が奇跡を行うと思えば思いのままにできるわけです。しかし、私達の側の信仰や祈りがそれを制限してしまうような規定が存在しているということです。これは逆もしかりで、祈りと信仰があれば、神様の世界がより大きく開かれる可能性があるということです。このような何らかの規定が、善と悪との闘いにおいて、私達に大きく影響を与えているのです。

 

 


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