2025年安息日学校ガイド第1期
 「神の愛と正義」

 

2025年1期11課 「しなかったことがまだあるか」

 

【日・勝利者キリスト】

 

悪魔は「この世の(不法な)支配者」と呼ばれていますが、真の支配者、真の王はイエス・キリストです。

ピラトがイエス様に、「それでは、やはり王なのか」と問うと、イエス様は、「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と答えられました。イエス様はこの世の人が考える王とは異なります。だから、「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」と、ピラトに対してそっけなく答えられたのでした。しかし、イエス様を真に王の王として認めている人たちはみな、イエス様の声を主なる王の声として聞くのです。この世の支配者である悪魔は、惑わす者であり、神様とその民を中傷し告発する者であり、不法を働く者です。真の王はそのようなことはしません。イエス様は、真理を証し、愛と義を表し、最終的に悪魔を滅ぼすために、この地上に来られた真の王なのです。

 

【月・正しく、義となさる方】

 

ローマ323節「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」

 

イエス様は悪魔の業を滅ぼすためにこの世に来られましたが、それは2段階で起こります。第一段階では、十字架によって悪魔の中傷的主張に対して反証し、第二段階では、悪魔の王国を悪魔もろとも完全に滅ぼされます。これまで学んできたように、悪魔の主張とは、神様の愛と義は偽りであるという、神様の御品性に対するものでした。それに対して、イエス様は十字架で、ご自分の命を持って、罪深い人間を贖い(買取り)、無償で義(正しい者)としてくださいました。こうして、悪魔の神様は愛のない、恐ろしい方だという批判を完全に打ち消されたのでした。黙示録の中に、このとき、天において叫ばれた声が記されています。

黙示録1210節 

「わたしは、天で大きな声が次のように言うのを、聞いた。『今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。神のメシアの権威が現れた。我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、投げ落とされたからである』」

このように天においても、完全勝利が宣言され、告発者の声は完全に打ち消されたのでした。ところで、『希望への光』P1079(『各時代の希望』第79章)に、興味深い言葉があります。

「サタンは、自分の仮面が引きはがされたことを知った。彼の統治は堕落していない天使たちと天の宇宙の前に公開された。彼は殺人者の正体をあらわした。神のみ子の血を流すことによって、彼は天の住民の同情をまったく失ってしまった」

天のみ使いたちの間には、初めは悪魔に対する同情のようなものもあったのかもしれません。しかし、この悪魔の主張ために、御子が命を捧げられたという出来事を前に、その同情はまったく消え去ってしまったのでした。

 

【火・私の愛する者の歌】

 

イザヤ書51~4節にかけて、主はイスラエルをぶどう畑に例えて次のように言われました。

「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために。そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に、ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った」(イザヤ512)。

 

主はイスラエルを選び、愛され、手塩にかけて育み、そして、良い実をつけて、神様の栄光を現わすことを期待しておられました。ところが、「実ったのは酸っぱいぶどう」(ヘブライ語の直訳は、「悪臭を放つ果物」)でした。もはやそれは、「ぶどう」としての価値はなく、主はどれほどがっかりされたことでしょうか。そして、主はこう言われるのです。「わたしがぶどう畑のためになすべきことで何か、しなかったことがまだあるというのか」(イザヤ54)。イエス様の側で民に対してなすべきことはすべてなされたということです。私達はクリスチャンとして上手くいかないことがあった場合、それを神様のせいにすることのないように、注意しなければなりません。神様は私達のためにすべてをなして下さっているからです。

 

水・キリストのぶどう園のたとえ

 

イザヤ5章でイスラエルの民はぶどう園のぶどうに例えられましたが、マタイ21章ではぶどう園で働く農夫に例えられています。このたとえ話では、収穫の時期になったとき、主人(神様)は収穫を得るために僕たち(預言者)を遣わすのですが、農夫たちは僕たちを捕らえて殺してしまうのです。そこで主人は自分の息子(イエス様)なら敬ってくれるだろうと思って送るのですが、同様に主人の息子も捕まえて殺してしまうのです。これがイスラエルの民が神様に対して実際に行ってきたことでした。イザヤ5:4で神様が「これ以上いったい何ができたというのか」と言われたように、御子をさえおしまず与えてくださった神様は、これ以上、いったい何ができたというのでしょうか。神様はできる限りのことをしてくださったのです。このたとえ話は、主人はブドウ園を「他の農夫たち(私達異邦人)に貸すにちがいない」と続きます。こうして主を信じるすべての者たちが霊的イスラエルとして神様の栄光を表す者となり、永遠の命に至る道が開かれたのです。

 

【木・神の御名の正しさの証明】

 

神様の期待に背いてばかりのイスラエルの民ではありましたが、優れた点があることも認めています。その一つが、神様の言葉がゆだねられたことです(ローマ32)。ユダヤ人でなければ神の言葉である聖書がこれほどまで正確に記録され、保存されたかどうかわかりません。ただ、彼らは神の言葉がせっかく与えららえたのに、それを守り、実行することができなかったのです。その点で叱責を受けているのです。また、「彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされる」ことはありません。「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方である」からです(ローマ334)。クリスチャンが問題を起こすと、しばしばキリスト教会全体が、しいては神様ご自身までもが否定される材料となってしまうことがあります。しかし、だからといって神様の誠実さや真実が少しでも損なわれたり、愚かな人間が神様に対して何かを言えるような立場になれるわけでもありません。すべての「書物」〔命の書〕が開かれるとき、人は義なる神様の御前で何一つ申し開きできないことを知ることでありましょう。最終的に、神様の正しさは再臨前審判において、見守っている全宇宙の前で明らかにされます。また、救われた者たちは天において、神様がなぜあのように行動されたのか、神様のあらゆる裁きが常に正しく、愛に満ちたものであったことを確認する機会も与えられます。そして最後に、すべて者がひざまずき、イエス様は主であると公に宣べるのです(フィリ2:1011)

 

 


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