2025年安息日学校ガイド第1期
 「神の愛と正義」

2025年1期12課 「愛と正義─二つの最も重要な掟」

 

【日・二つの最も重要な掟】

 

この世において、神様の愛と正義を前進させていくために、私達はどうしたら良いのでしょうか。イエス様はそのことについて、まず、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。」と言われました。いい加減な気持ちではなく、心から神様を愛すること。そこから、神の愛と正義は始めるのだということです。そのうえで次に、「『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(マタ22:37~40)と続けられました。イエス様はご自分を捨ててすべての人を愛されましたが、そこまでではなくとも、せめて、自分がしてもらったらうれしいと思うようなことを人にしていく。押し付けになってはいけませんが、このような心で隣人に接するようにと主は教えておられます。

 

マタイ19章に富める青年の物語がでてきますが、そこでこの青年は永遠の命を得るためには、どんな良いことをしなければなりませんかとイエス様に問います。それに対してイエス様は最後に、「すべての物を売り払い貧しい人に施して、それから私に従ってきなさい」(マタイ1921)と言わるのです。隣人への愛を実践しなさいということですが、これはこの青年にとって富・財産が主に従う妨げとなっていたからです。隣人を愛することは、主に従うことそのものなのです。青年が去っていったあと、弟子たちが「それでは、だれが救われるのだろうか」と驚いていると、イエス様は、「人にはできないが神にはできる」(同1926)と教えられました。このことから、この青年に欠けていた重要な点が見えてきます。それは主にゆだね、主に頼っていくということでした。この世において愛と正義を前進させていくには、何よりも、主にゆだねるということが重要だということです。

 

【月・二つの最も重い罪】

 

二つの最も重要な掟が神様への愛と隣人への愛であるならば、逆に、最も重い罪とは、この神様と隣人への愛の欠如ということになります。具体的には、それは偶像礼拝であり(神様以外のものを神様よりも愛することも含む)、また、弱者への無関心や強い自己愛などになります。詩編13518節に、「偶像を造り、それに依り頼む者は皆、偶像と同じようになる」とあります。偶像と同じようになるとは、「口があっても話せず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、口には息が通わない」(詩編1351617節)という霊的に死んだような状態に陥るということです。神様と隣人への愛の欠如は、やがて自分自身の堕落につながっていくということです。

Iヨハネ4:2021のみ言葉も考えさせられます。「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」。神様への愛と隣人、特に同じ信仰を持つ者同士への愛は、セットであり、切り離すことができないものなのです。

 

【火・神は正義を愛される】

 

詩編82編は、正義を愛される神様のお姿がよく表されています。世の支配者たちに対して、「いつまであなたたちは不正に裁き、神に逆らう者の味方をするのか」(詩編82:2)と問われています。そして、「弱者や孤児のために裁きを行い、苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。弱い人、貧しい人を救い、神に逆らう者の手から助け出せ」(詩編82:34)と命じています。また私達一人一人に対しても、「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」(ミカ6:8)と語られています。イエス様は「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハ13:35)と言われましたが、神様の愛と正義に生きよとの呼びかけは、決して聖書のささいな関心事ではなく、むしろ中心的なメッセージであり、イエス様の弟子であることを証明するしるしとなるのです。

 

水・正義を貫くための召し

 

イエス様は「正義の実行と神への愛はおろそかにしている」(ルカ11:42)、「律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実これこそ行うべきことである」(マタイ2323)と言われました。正義を愛される神様は、私達に対しても愛と正義を貫いて生きることを求めておられます。しかし、私達はそれをおろそかにしていると、しばしば聖書の中で指摘されています。ところで、一般に正義感が強すぎると、周囲の人とうまくいかないことが少なくありません。それは正義を盾に、周りの人を裁いてしまいやすいからかもしれません。これは良いことではありません。しかし、神様が求めておられる正義とは、これまで学んできたように、神様を愛し、隣人を愛することです。そう考えると、「正義を貫く。正義に生きる」とは、「愛を貫く。愛を生きる」ということになります。このように考えたほうがよりしっくりくるのではないでしょうか。

 

【木・「わたしの隣人とはだれですか」】

 

イエス様が神様への愛と隣人への愛という二つの最も重要な掟を明言された後、ある律法の専門家が、「自分を正当化しようとして、『では、わたしの隣人とはだれですか』と言った」(ルカ10:29)とあります。これに対してイエス様は、あの有名な「善きサマリア人」のたとえを語られました。強盗に襲われて傷ついたユダヤ人を、同法の宗教家たちが手を差し伸べることをしなかったのに対して、敵対関係にあったサマリア人が助けたのです。イエス様はここで、「誰が、この傷ついたサマリア人の隣人となったか」と問います。興味深いのは、「わたしの隣人とはだれですか」という自分を中心にした質問に対して、イエス様は「誰が、この傷ついたサマリア人の隣人となったか」と、愛を必要としている人を中心に考えさせていることです。いままさに、愛と正義を必要としている人がいながら、それに対して無関心であるならば、来るべき日、主はそのことを私達に問うてくることでしょう。「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」(マタイ2545)と。

 

 


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