2025年安息日学校ガイド第1期 「神の愛と正義」 |
2025年1期13課 「愛は律法の完成」
【日・愛の律法】
神様の律法は、神様と人との関係を表現したものであり、それは愛に根差しています。出エジプト記20章において、神様ご自身が十戒を石に書かれたとき、それは契約関係という文脈の中でイスラエルに与えられましたが、前半の4つの戒め、すなわち、「神様以外に神があってはならない」「偶像を拝んではならない」「神様の名をみだりに唱えてはならない」「安息日を心に留め聖とする」は、すべて神様との愛の関係を表現したものであり、また後半の6つ、すなわち、「父母を敬う」「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「偽証してはならない」「隣人の物を欲してはならない」は、すべて人との愛の関係を表現したものです。それゆえ、イエス様が二つの最も重要な掟として、「心を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マタ22:37、申6:5と比較)、「隣人を自分のように愛しなさい」(マタ22:39、レビ19:18と比較)と言われたのです。
【月・律法は聖であり、正しく、善いもの】
イエス様の十字架は人類に対する愛だけでなく、律法の擁護が究極の形で現わされたものでした。律法を軽視する人もいますが、もしそれが正しいことであるなら、イエス様は十字架にかかる必要はなく、ただ、「人間を赦す」と言えば良かったわけです。また、十字架による恵みと救いによって律法は廃止されたと考える人もいます。これは裏返せば、神様と人との愛の関係に生きることは、それほど重要なことではない。あるいは、律法を守れなかったとしてもそれほど気にすることはないと、考えるのと等しくなります。そして、これこそが福音であると主張します。しかし、パウロは、「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない」(ローマ6:1,2)と明言しています。さらに、「罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう」と続けます(同3)。このようにパウロが主張するのには、明確な霊的理由があります。それは、信仰によってキリストの内にある者は、「(キリストの)死にあずかるためにバプテスマを受け」、「罪に対して死んでおり」、「新しい命に生きる」ものとされたからです。霊的には、古い罪の世界にはもはや生きていないのです。それなのに、どうして律法がないがしろにされているその古い世界になおも、留まることができるだろうかと言うわけです。そして、何よりも、「律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いもの」(ローマ7:12)であり、神様の御品性そのものなのですから、神様を信じ従う者は、律法を自然に愛するものなのです。
【火・律法と恵み】
イエス様はニコデモに、「人は新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)と言われました。このとき、ニコデモには意味がわからなかったようですが、このイエス様の言葉からはっきりわかることは、人は新たに生まれ変わることができるということ。そして、新たに生まれ変わった者は、神の国を見るものとなるということです。イエス様が言われた新たに生まれるとは、もちろん、肉体的なことではありません。あるいは単なる心の変化とも違います。それはもっと霊的な出来事であり、聖霊の力が働いたときに起こります。エレミヤ31:31~34によると、それはまた、主ご自身が、愛の律法を、それを求める者の心に書きつけるようにして起こる内側の霊的変化です。神様を信じる者たちの内側で、想像を超えた驚くべきことが起きるのです。愛の律法は、私たちの品性にかかわるものであるがゆえに、神様はそれを人間の心に書きつけて下さるのです。
【水・愛は律法の完成】
愛と律法の結びつきは、いくら強調してもしすぎることがありません。パウロは、ローマ13:10で「愛は律法を全うするものです」と述べ、またガラテヤ5:14でも、「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされる」と述べています。では、律法を全うする愛とは、具体的にどのようなものなのでしょうか。イエス様はマタイ23:23で、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ…律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ」と述べています。ここでイエス様は正義、慈悲、そしての誠実を最も重要な具体的な愛の形であると語っており、それがないがしろにされていると批判しておられます。ないがしろとは、あってもないもののように軽んじることです。たとえば、目の前に助けを必要としている人がいても、まるで誰もいないかのように通りすぎていくようなことです。十戒は「~してはならない」と表現されていますが、これを肯定的に言い換えれば、先の正義、慈悲、誠実な生き方を積極的に行うことが重要だということになり、イエス様はそのことを教えておられているのです。同じように、安息日もないがしろにされていると繰り返し聖書の中で述べられています。それは言い換えれば、神様がないがしろにされているということです。安息日は何もしない日ということではなく、むしろ、積極的に神と人を愛する日として過ごしてみると良いでしょう。
【木・何よりも互いに愛し合う】
愛が律法を全うするのであれば、悪いことをしないようにするだけでは、神の律法を本当の意味で守ることはできません。愛の律法は、悪事を行わないように命じるだけでなく、神の愛を他者に示す行為をするよう促しています。
「人に対する愛は、神の愛がこの地上にあらわされたものである。栄光の王キリストがわれわれと一つになられたのは、この愛を植えつけ、われわれを一つの家族の子らにするためであった。『わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい』とのキリストの言葉が成就されるとき、われわれにとってキリストの使命は達成されるのである。われわれは天国にふさわしい者となる。なぜならわれわれの心のうちには天国があるからである」(『希望への光』1011ページ、『各時代の希望』第70章)。
イエス様が世の人々を愛されたように、私たちも彼らを愛するとき、その時に、私たちは天国にふさわしい者となり、真に一つの神の家族となるのです。
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