2024年安息日学校ガイド第4期 「ヨハネによる福音書」 |
2025年1期2課 「契約上の愛」
【日・神の永遠の愛】
ヨハネ3:16「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」
神が私達を愛しておられることは、繰り返し聖書の中で述べられていることです。しかも、その愛は特定の人々に対してではなく、「主はすべてのものに恵みを与え、造られたすべてのものを憐れんでくださいます」(詩編145編9節)。しかし、主はご自分の愛を誰にも強要なさいません。受け入れるか拒絶するかは、その人の自由です。ただ、それを拒絶する人がいても、神様は彼らを愛することをおやめになりません。エレミヤ31:3で、「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ」とある通りです。その愛のゆえに、再臨が遅れているとも書かれてあるほどです。
「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」ペトロの手紙二3章 9節
【月・契約上の愛】
申命記7章9節「あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。この方は、御自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれる」
神様の愛は永遠であり、私達がその愛を受けるに値しない者であるにも関わらず、とこしえの愛で愛されているということは、本当に驚くべきことです。神様の永遠の愛が私達に注がれていることを保証するために、神様は契約まで結んでくださいました。ただ、通常2者間で交わされる契約には、どちらの側にも守らなければならない条件があります。神様の愛の契約で私達に求められていることは、私達も神様を愛するということです。神様への愛は、神様の戒めを守ることによって現わすことができます。そのように私達が生きる限り、神様の愛は千代にわたって臨むのです。これは神様が私達と結んでくださった契約です。もちろん、神様の愛に比べて私達の愛は小さく、弱いものです。戒めを守りたくても守れないことも多いです。それでも、神様を愛する者でありたいという思いは、神様に届きます。神様は心を見て下さいます。
【火・条件付きの関係】
ホセア書9章15節に、「…その悪行のゆえに、彼らをわたしの家から追い出し、わたしは、もはや彼らを愛さない。高官たちは皆わたしに逆らう者だ」と書かれてあります。また、ローマ11章22節に、「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう」とあります。このことは、神の愛の契約が破られたことを意味しているわけですが、神様のほうから契約を破られることはありません。神様との契約が破棄されるときは、常に、私達人間が神様との約束を破るときです。つまり、神様を愛さないで、世を愛したり、自分を愛したりするときです。しかし、ホセア14:5では、再び、「わたしは…喜んで彼らを愛する」と宣言しておられます。どういうことでしょう。それは民が真に悔い改めるなら、神様の愛は再び戻って来るということです。神様から離れていた人が、もう一度、神様の愛の関係の中に戻って来るならば、神様はその人を再び受け入れて下さるのです。
【水・はく奪された憐れみ】
ヨハネの手紙一4章7、8節「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」
教会は互いに愛し合うための場所です。なぜなら、神様から生まれた者たちが集うところだからです。神様から生まれた者たちは、愛の中に生きています。なぜなら、愛の神様を知っているからです。もし、愛がなければ、神様を知ってはいません。知識では知っているかもしれませんが、神様が愛であることを知りません。これは致命的なことです。「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」(ヨハネの手紙一4章19節)とヨハネは言っています。神様は愛であり、神様のほうが先に私達を愛して下さった。これが私達が愛に生きる理由であり、私達も同じように、まず私達の方から兄弟姉妹を愛することが大切です。たとえば、その人から愛されなくても自分は愛する。許されなくても自分は許すということです。
また、マタイ18章の1万タラントのたとえ話では、主人から1万タラント(16万年分の賃金)の借金を許してもらいながら、100デナリの借金をしている人を許すことができなかった結果、1万タラントの借金の許しも帳消しになってしまいました。これはもし私達が愛に生きなければ、神様の憐みを取り上げられてしまうことを意味しています。しかし、同時にこのたとえ話は、先に神様からありえないような負債を許してもらっている、つまりありえないほど大きな愛を受けているという事実に目を向けさせるものです。そのことを見つめる時、おのずと、私達の行動も変わるはずなのです。もし何も変わらないとするなら、神様の愛を知らないということを意味しているのです。
【木・ただで受けたのだから、ただで与えなさい】
私達が神様から受けた愛と赦しはあまりにも大きくて、どのようにその愛に応えたら良いのかわからにという人も多いのではないでしょうか。同じだけの愛を神様に返すことは不可能です。しかし、一万タラントのたとえの中で教えていることは、神様の愛をできるだけ他者に反映させよということです。具体的には、このたとえにあるように、人を許すこと。良きサマリヤ人のたとえのように、助けを必要としている人に手を差し伸べる事。また、小さい者をイエス様だと思って、大切にすることなど、聖書にはいくつも具体例が出てきます。そして、ヨハネの手紙一3章16節「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」とあるように、自分に死ぬということ、すなわち砕かれた思い、謙遜な思いで他社に接することが大切です。
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