2024年安息日学校ガイド第4期
 「ヨハネによる福音書」

2025年1期3課 「神に喜ばれるために」

 

【日・想像以上に価値のあるもの】

 

有名な放蕩息子のたとえ話は、神様にとって私達一人ひとりがどれほど価値ある存在であるかを教えています。それは私達の想像以上です。自分勝手に家を飛び出し、父から譲り受けた財産を使い果たした挙句、みじめな姿で戻ってきた息子を、父は走り寄って抱きしめます。「どこで、何をしていたのか」と問いただすこともなく、ただ抱きしめ、うれしくて宴会まで催すのです。どこで、何をしていていようと、父のもとに帰ってきてくれたことがうれしかったのです。なぜなら、父の元を離れるとは、死を意味していたからです。

「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」(ルカ1524

いずれにしても、放蕩息子のたとえ話を通して、私達は父なる神様がどのような思いで私達一人ひとりを見つめ、どれほど愛して下さっているのかを知ることができます。

 

【月・喜び楽しむ】

 

ゼファニヤ書317節「お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ、愛によってお前を新たにし、お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」

 

エルサレムはアッシリヤそしてバビロニアなどの敵国によって苦しめられ、最終的に滅ぼされ、わずかばかり生き残った民は捕囚として連れていかれます。そのような時代背景の中にあって、主は遠く離れてはおらず、むしろ、民のただ中におられると宣言されます。そして、主は勇士であって勝利を与えられる方として描かれています。さらに驚かされるのは、民のことを思っては喜び、楽しむとも言われています。それはまるで、我が子を思って喜び楽しむ親のように。これが神様も気持ちなのです。しかし、このゼファニヤの時代、偶像礼拝が盛んに行われ、安息日が軽んじられ、預言者たちの警告を無視し、多くの民が神様を忘れて生きていたのでした。それは神様から喜びを奪うことでありました。「キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように妻(キリスト)を愛し、また自分の体のように、妻(キリスト)を愛しなさい」と勧めていますが(エフェ5:2528)、夫婦は心から愛し愛される関係にあるとき、幸せで、喜びがあふれるものです。神様との関係も同じなのです。

 

【火・神を喜ばせているのか】

 

では、どうすれば神様を喜ばせることができるのでしょうか。このことを考える時、そもそも神様の目に私達がどのように映っているのかをまず知ることが大切です。私達がどれほど罪深いものであろうとも、また、私達が神様を喜ばす術を持っていなかったとしても、「私の目にあなたは価高く、貴く、私はあなたを愛し」(イザヤ書434節)ていると主は言われます。そして、「主は御自分の民を喜ぶ」(詩編1494節)と言って下さっています。親が子供の存在を喜ぶことに理由は必要としません。それは自然なことです。それと同様に、神様は私達一人ひとりの存在を喜んでくださっています。それは私達を愛しておられるからです。しかし、親不幸な子どもが親を悲しませることがあるように、私達が神様を悲しませることがあります。それは主に逆らうときにです。

「主は逆らう者のいけにえをいとい、正しい人の祈りを喜び迎えられる。主は逆らう者の道をいとい、従うことを求める人を愛される」(箴言1589節)とある通りです。主に逆らうとは、具体的にはみ言葉の教えから離れて生きることです。間違いを犯してしまった時は、素直にそれを認めて、主のもとに立ち返ることが大切です。

 

水・生きた石

 

自分の罪深さを考えたとき、神様に喜びをもたらすことなどできないと思ってしまう人も少なくないかもしれません。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ58節)。神様の私達に対する愛は、私達がまだ罪びとであったときからなのです。そう考えると、自分が罪深いから神様を喜ばせることはできないと考えるよりも、むしろ、こんな罪深い者が、神様を喜ばせるものでありたいと願うことができることを感謝するべきなのかもしれません。そして、ローマ81節には、「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」とありますので、信仰によってキリスト・イエスに結ばれているのならば、もはや罪深いものだと、自分自身を責める必要もないのです。それと共に、「信仰がなければ、神に喜ばれることはでき」(ヘブライ116節)ないことも覚える必要があります。信仰とは、神様に愛されていることを微塵も疑わず、信じることです。そして、愛されているがゆえに、私達は、キリストご自身がそうなさったように、自分自身を神様の体を造り上げるための「生きた石」として、そして、「神に喜ばれる霊的ないけにえ」(ペトロ一25節)として、主にささげることを求めましょう。神様は喜んで、私達を受け止めて下さいます。

 

【木・価値ある目標】

 

子どもが悪霊に取りつかれてしまった男が、イエス様のもとに連れられて来ました。弟子たちは悪霊を追い出すことができず、この男もイエス様に、「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」(マルコ922節)と、自信なさそうに頼みました。すると、イエス様は、「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」(マコ9:23)と一喝するのです。男は慌てて、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(9:24)と、子供ではなく、自分を助けて下さいと言う始末です。さて、このときイエス様は、その男に、「もっと信仰深くなってから、出直しなさい」とはおっしゃいませんでした。「信仰のないわたしをお助けください」という彼の叫びに、主は応じて下さったのです。確かに、「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」が、同時に、信仰の弱い私達を神がお見捨てになることもありません。なぜなら、繰り返しになりますが、一人ひとりが、神様の目には高価で尊いからです。

 


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