2024年安息日学校ガイド第4期 「ヨハネによる福音書」 |
2025年1期4課 「神は情熱的で憐み深い」
【日・母親の愛以上のもの】
「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも私があなたを忘れることは決してない」(イザヤ 49:15)
母親の子供に対する愛より大きな愛はないでしょう。聖書は、神様の私達に対する愛は、その母親の愛よりもさらに大きいと教えています。たとえ母親が我が子を忘れるようなことがあったとしても、神様は「私はあなたを私の手のひらに刻みつける」(イザヤ49:16)とまで言われて、私達を決して忘れることはないことを教えています。このように人間が持ち得る最大の愛と神様の愛を比較することによって、神様の愛がいかに大きいかということを教えようとしているわけです。子を持つ親ならば、これ以上分かりやすいたとえはありません。
「エフライムはわたしのかけがえのない息子、喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに、わたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り、わたしは彼を憐れまずにはいられないと主は言われる」エレミヤ31:20
エフライムは12部族の1つですが、北イスラエルを代表する部族として使われています。そのエフライムに対して、神様は「わたしのかけがえのない息子」と呼び、「喜びを与えてくれる子」と言います。さらに、神様に逆らう度に、「神様は彼を深く心に留め、彼のゆえに胸は高鳴り、わたしは彼を憐れまずにはいられない」とさえ言われます。神様の愛の大きさに圧倒されます。
【月・はらわたを引きちぎられるような愛】
ホセア11:8「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか…わたしは激しく心を動かされ憐れみに胸を焼かれる。」
神様に背き、神様から離れていった民たちは、神様から裁かれても当然であったのに、しかし、神様は「お前を見捨てることができようか。お前を引き渡すことができようか。わたしは激しく心を動かされ憐れみに胸を焼かれる」と言われ、神様の胸は激しく痛んだのでした。「憐れみ」という言葉は、はらわたを引きちぎられるように痛むという意味の言葉から来ています。自分の子供が悪に走り、自分のもとから離れていったならば、どんな気持ちがするでしょうか。悲しみと心配で、お腹がキリキリと痛むのではないでしょうか。神様も同じなのです。神様が私達を憐れんで下さるのは、「激しく心を動かされ憐れみに胸を焼かれる」ような思いから来ていることを忘れてはなりません。
【火・イエスの憐れみ】
マタイ9:36「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれました」
マタイ14:14「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。」
キリストも、はらわたが痛むように、多くの人々を憐れまれました。神様は憐み深い方だと聖書は繰り返し語ります。はらわたが痛むほど、私達一人ひとりのことを思っておられます。だからこそ、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」(マタ23:37)とのキリストの言葉に胸が締め付けられるのです。キリストの愛と憐みを、多くの人達がまるで分っていなかったのです。キリストの痛みは、なお一層深くなったことでしょう。そして、その痛みは十字架において最高潮に達するわけですが、その痛みの結果、多くの実りを見て、キリストは満足されるのです。
【水・熱情の神なのか】
神様は「ねたむ神(熱情の神)」(申命記4:24)であると表現されています。一般に、「ねたみ」は良いものではありませんし、「愛は…ねたまない」(第一コリ13:4)とも教えられています。それなのになぜ、愛と憐みの神様が、同時に「ねたむ神」であると表現されているのでしょう。神様に「ねたむ」(ヘブライ語のカナー)という言葉が使われるとき、それは人間の妬みとは異なります。これは、民に対する神の愛のもう一つの側面なのです。もし、人が他の神々を拝んでいるとして、それを見ても、神様が何とも思わないとするならば、おそらく、そこには愛はないでしょう。神様がねたむのは、私達を愛しているからこそなのです。しかも、それは激しいのです。それだけ強く、深く、激しく私達は神様から愛されているのです。新共同訳では、誤解を招きやすい「ねたむ神」ではなく、「熱情の神」と訳しましたが、真意を正しく理解すれば、「ねたむ神」と訳したほうが、むしろしっくりとくるのではないでしょうか。
【木・憐れみ深く、情熱的な】
コリントの信徒への手紙一13章4~8節
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。」
神様は愛です。ゆえに、神様は私達にも同様に愛を求めます。愛とは何かということに関して、コリント第一13章に列挙れています。どれもが愛の具体的な表れとして納得することでしょう。つまり、私達は愛がどういうものなのかを知っているわけです。しかし、知っているのと、実践するのとは別です。神様の愛を生きるためには、神様との親密な関係が常に築かれていることが大切です。そして、神様の愛を日ごとに祈り求めていくことです。特に、愛せない人や許せない人に対して、愛を示すことができるようにと祈っていくことから始めましょう。
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