2024年安息日学校ガイド第4期 「ヨハネによる福音書」 |
2025年1期5課 「神の愛の怒り」
【日・悪によって悲しむ】
詩編78:38 「神は憐れみ深く、罪を贖われる。彼らを滅ぼすことなく、繰り返し怒りを静め、憤りを尽くされることはなかった」(新共同訳)
詩篇78篇はとても長い詩ですが、千年余りのイスラエルの歴史がまとめられています。2節に、「いにしえからの言い伝えを告げよう」と言って始まりますが、「言い伝え」と訳された言葉は、「隠されていること」とか、「なぞ」と、訳している聖書もあります。「なぞ」とは、不可解、神秘、私たちの理性では納得できない事柄であり、あり得ないことという意味です。そのなぞとは、イスラエルの民が神様の驚くべき恵みを忘れて、繰り返し神様に背いてきたにもかかわらず、神様は彼らを見捨てることなく、忍耐と憐みをもって関わり続けてくださったということです。聖書の神様は正義を愛し、悪を憎みます。人が悪の力に負けてしまうとき、神様は悲しまれます。しかし、その弱い人間を憐れみ、御自分が身代わりとまでなって、罪深い人間を贖おうとされる、その驚くべき神様の愛を、この詩篇の作者は、「昔からのなぞ」と呼び、読者に告げているのです。
【月・怒ること遅き神】
「わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。」ヨナ4:2
神様がニネベの町の人々の罪を赦されたとき、その神様の憐れみ深さに対して、ヨナは「大いに不満」を感じて怒ったとあります(ヨナ4:1)。この背景には、アッシリア人がイスラエルにしてきたひどいことのゆえに、ヨナは彼らを憎み、神様が彼らに憐れみを示すことを望んでいなかったということを表しています。こうなることがヨナには分かっていたため、神様からニネベに行って、神様の言葉を伝えるように言われたとき、逃げたのです。このことは、ヨナ自身の無慈悲さを表しています。ひどい犯罪を犯した人でも、真に悔い改めるなら赦され、救われるということが受け入れがたいという声を、時々耳にしますが、これもヨナと同じ心だと言えるでしょう。神様がいかに憐み深い方なのか理解していないばかりか、自分自身も神様から大きな憐みを受けていることをすっかり忘れてしまっています。あるいは、自分はそのような犯罪者よりは悪い人間ではないと思っているからかもしれません。また、ヨナは同時に、神様がいかに憐み深い方なのかを理解していたこともわかります。
【火・義憤】
神様は憐み深い方であるがゆえに、怒るに遅い方だと聖書は言います。しかし、怒ることがないとは言っていません。神様が怒るとき、しばしば、それを義憤と表現します。愛のゆえの怒りです。たとえば、マタイ21章12節に、「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された」と記されています。本来、神殿は神様が宿る聖なる場所であり、祈りの家と呼ばれるべき場所です。それなのに、そこを不正な高値で物の売り買いが横行するような、最も弱い人々をだまし、虐げるために用いられていたのです。そのような光景を目撃して、イエス様は神殿を強盗の巣にしてしまっていると言って、憤られたのでありました。この憤りは、神様に対する愛と、弱い人達に対する愛からくる情動でした。また、人々が幼い子どもたちをイエス様のもとに連れて来たとき、弟子たちがこの人々を叱ったとき、「イエスはこれを見て憤り、弟子たちに、『子供たちをわたしのところに来させなさい』」(マコ10:13、14)と言われたり、ファリサイ派の人々が、安息日に人をいやすことで安息日を破ったとしてイエス様を非難したとき、イエス様は、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」(マコ3:4)と怒りを示し、「彼らのかたくなな心を悲しみながら」(同3:5)、その人を癒されたのでした。
キリストの怒りは弱く小さな者たちに対する愛の表れなのです。とりわけ、悪がその愛の対象を傷つけるとき、イエス様は怒りを表すのをためらいませんでした。
【水・神は進んで苦しめられることはない】
バビロニア帝国のネブカドネザル2世のとき、南ユダ王国の首都エルサレムは、前597年と前586年の2回にわたって攻撃を受け、滅ぼされました。なぜ、このような悲劇が起きたのでしょうか。なぜ、このようなことを神様は許されたのでしょうか。もちろん、神様は進んでエルサレムを滅亡させたわけではありません。エルサレムは偶像崇拝がはびこるようになり、それは神殿の中にまで入り込んできていました。また、安息日が軽視され、礼拝は形骸化していました。イザヤ、エレミヤ、エゼキエルなど、神様はどの時代よりも多くの預言者を立て、悔い改めるように警告しました。しかし、民たちは預言者を通し語られる神様の言葉に耳を傾けず、悔い改めることもありませんでした。その結果、神様はバビロンを用いて、エルサレムが神殿もろとも滅びることを許されたのでした。どれほど心を痛められたことでしょう。しかし、バビロンがエルサレムを滅ぼすことを神様が許されたとしても、バビロンがエルサレムの住人たちよりも、神様の目に正しかったわけではありません。あくまでもバビロンは、イスラエルの民が真に悔い改め、神様に立ち返るために、神様に用いられたにすぎません。約70年ののち、バビロンはメド・ペルシャによって滅ぼされるのです。そのことについて神様は次のように語っています。
「しかし、わたしはバビロンとカルデアの全住民に対し、お前たちの目の前で報復する。彼らがシオンで行ったあらゆる悪に対してと主は言われる」。エレミヤ書 51章 24節
【木・憐れみを示す】
確かに、神様の怒り(義憤)は、恐ろしいものです。しかし、神様の怒りはすべて、悪や不正に対して向かって行きます。悪や不正がなければ、神様がお怒りになることもないわけです。やがて、来るべき世界には、もはや悪や不正は存在しませんので、神様の怒りも必然的になくなるということになります。愛と平和と喜びだけが満ちていることでしょう。
ところで、神様の怒りが、人間の復讐を許すものと受け取る人がいるのではないかと心配している人もいるかもしれません。しかし、このことに関しては、「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』との(ローマ12:19)明確な教えがあります。私達は復讐ではなく、むしろ、愛と憐みを示し、赦すことが求められています。
では、義憤はどうでしょうか。義なる神様が憤られるからこそ義憤となりますが、不義な私達が憤る場合、それも義憤となりえるのでしょうか。確かに、道理に外れたことや、公平ではないことに対する人間的な怒りというものはあるでしょう。弱い者、小さな者が虐げられているのを見て、思わず怒ってしまうこともあるでしょう。しかし、それでも注意が必要です。私達も同じことをしてしまいかねない罪人だからです。愛が動機となっていたとしても、いつのまにか怒りの感情に飲み込まれてしまうこともあるからです。
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