2024年安息日学校ガイド第4期 「ヨハネによる福音書」 |
2025年1期6課 「神の正義の愛」
【日・愛と正義】
詩編33編5節「主は正義と公正を愛し、主の慈しみに地は満ちる。」
神様は正義と公正を愛しておられます。愛と正義は神の国の統治の基本であり、人間の腐敗した統治とは大きく異なります。詩編85:11(口語訳85:10)に、「慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけ(する)」と書かれてありますが、聖書は、神様の愛と正義とは、密接に結びついていることを教えています。神様の裁きは常に正しく、公正であり、それら全ては神様の愛から来ているのです。それゆえ、たとえば、弱い立場の者が、不当な抑圧を受けるような場合、神様はそれを厳しく非難され、時には悪人や抑圧者を罰し、最終的に不正や抑圧にさらされている者たちに解放をもたらすのです。このように愛と正義であられる神様は、神様を主とあがめる者たちにも、同じ心で生きることを望んでおられます。
「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかはお前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」(ミカ6:8)。
【月・神は完全に善であり、正しいお方】
神様は単に正義を愛しておられるだけでなく、実際に神様ご自身が完全に義なるお方です。私達罪びとが、正しい生き方を求めながらも、それができなくて苦しんでいるのとは、まったく異なります。
「御もとには不正がない」(詩編92:16〔口語訳92:15〕。神は「決して不正を行われない。朝ごとに裁きを与え、それを光とし、誤りをなさることはない…」(ゼファ3:5)。「神は光であり、神には闇が全くない」(Iヨハネ1:5)などと教えられているとおりです。それゆえ、私達はどのようなことであっても、神様がなさることは常に正しいと言うことができるのです。
また、ヤコブ1:13によれば、「神は、悪の誘惑を受けるような方」でもありません。悪魔は神様を間違った方へと誘惑できるお方ではないことを、はじめからわかっています。そのような完全に義なるお方は、私達にも同じ正しい生き方を求めているわけですが、ただ一方的に求めておられるのではなく、そのために絶えず働いてもおられます。そもそも、私達の心の中に、正しい生き方がしたいという思いを授けて下さるのも神ご自身なのです。
【火・神の変わらぬご性質】
「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方」ヘブライ13:8
私達は、考えが変わったり、行動が変わったり、肉体も日々変化しています。それに対して神様は、「きのうも今日も、また永遠に変わることのない」不変の存在であると聖書は言います。たとえば、神様の言葉(聖書)が真理であると言われるのは、一度神様から発せられた言葉は永遠に変わることがないからです。神様のご性質である愛と正義も決して変わることはありません。ヤコブの手紙1章17節には、「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません」とある通りです。マラキ書3章6節でも、神様は、「私は主である。変わることはない」と、神様ご自身の言葉が記されています。ところが、続く7節においては、「あなたがたは先祖の時代から私の掟から離れ、それを守らなかった。私に立ち帰れ。そうすれば、私もあなたがたに立ち帰る」と、神様と人間との関係性においては変化される可能性があることを暗示しています。神様は確かに不変のお方ですが、私達との関係性において、私達が葦のように、ふらふらと移ろいやすく、神様からすぐに離れてしまうために、神様との関係性を維持することができないのです。それにもかかわらず、何度もでも神様のもとに立ち返ることができるのは、神様の私達に対する愛と憐みが変わらないからです。
【水・神は後悔されるのか】
出エジプト32章14節「主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。」
神様が「後悔される」ということは、ありうるのでしょうか。私たちは、神様のご性質が決して変わらない
ということを見てきましたが、聖句の中には、神様が「後悔される」とか、「思い直される」と述べている箇所があります。これはどういうことでしょうか。「神は人ではないから、偽ることはない。人の子ではないから、悔いることはない。」(民数記23章19節)とあるように、神様が後悔や思い直す場合、それは人間の場合とは異なります。神様が後悔されたり、思い直されたりする場合、それは常に、私達人間との関係の中で起こるものです。エレミヤ18章8節に、「もし、断罪したその民が、悪を悔いるならば、わたしはその民に災いをくだそうとしたことを思いとどまる」とあるように、結局のところ、火曜日のところでもふれたように、自由意志が与えられた人間があまりにも変わりやすい存在であるために、それによって神様のお考えも変わることがあるわけです。しかし、その場合でも、神様の愛と正義のご性質が変わることはありません。神様が人間に対して後悔されたり、思い直されたりするときも、それらは常に、その神様の変わらぬ愛と正義から生じたものなのです。
【木・愛と正義を堅く守る】
マタイ5章48節「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
イエス様は、「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5章44節)と言われました。それは、私達が「天の父の子となるためである」(同45節)と続けられました。私達が真に神様の子となるためには、敵を愛することが求められているのです。父なる神様は、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからで」(同46節)す。つまり、私達に神様と同じ愛を生きるように教えられているわけです。そして、最後にこう続けられたのです。
「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(48節)
キリスト者の完全とは、父なる神様と同じ愛を生きるときに完成されるのです。このみ言葉の通りに生きるなら、自分にひどいことをした人がいた場合、その人を許し、その人の祝福を祈ることが求められます。もし、敵対する人が自分の近くにいるとしたら、そのような人を遠ざけて下さいと祈りがちですが、神様が私達を完全なる者へとさせようとして、そのような敵対者を近くに置かれたのかもしれません。そのような目で周囲を見つめる時、世界が変わって見え始めることでしょう。
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