2024年安息日学校ガイド第4期
 「ヨハネによる福音書」

 

2025年1期7課 「悪の問題」

 

【日・愛と正義】

 

多くの人は神様を信じれば、より幸福な人生を送ることができると期待します。そして、その期待通り、神様を知らなかったときにはなかった深い安らぎを経験し、新たな希望が生まれ、信仰のすばらしさを知ります。しかし、ヨブ記30 26節に、「わたしは幸いを望んだのに、災いが来た。光を待っていたのに、闇が来た」とあるように、そのような素晴らしい信仰の歩みの中で、しばしば、「なぜ?」と思うようなことが起こることがあります。苦難の中で、私達は、これは自分の罪のゆえなのか、あるいは神様からの試練なのか、その理由がわからず苦しむのです。やがてその理由がわかることもありますが、ヨブのように最後まで理解できないこともあります。ヨブの場合、神様が悪魔にヨブを試みるのを許されたことから起こったわけですから知りようがありませんし、災いの背後には、悪魔が存在していたことがわかります。また、エレミヤ121節で、「正しいのは、主よ、あなたです。それでも、わたしはあなたと争い、裁きについて論じたい。なぜ、神に逆らう者の道は栄え、欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか」とあるように、神様がなさることはすべて正しいとわかっていながらも、正しい者が苦しみ、悪人が栄えているように見えてしまうことがあります。このような現実も、主に「なぜ?」と問いたくなることでしょう。霊的世界で悪魔が暗躍し、その影響が見せかけの繁栄という形で地上に現れてくる。そして、この悪魔の影響が最も大きく現れたのが、キリストの十字架でした。悪魔によってもたらされた人類の罪が、キリストの一身に覆いかぶされた時、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタ27:46)と、キリストでさえ、主よ「なぜ」ですかと叫ばれたのです。このことを考えると、最終的には十字架は悪魔の敗北を決定的にしていくとはいえ、悪魔のこの力を軽視してはならないことを教えられるのです。

 

【月・知らないことがたくさんある】

 

私達は、この世界で起きることについて、知らないことや、理解できないことがたくさんあります。目に見えない霊的世界で起きていることなら、なお一層です。しかし、私たちはすべてを知らなければならないわけではないのです。私たちがすべきことは、神様がなさることはすべて正しく、意味があり、自分にとって益となることを信じることでなのす。ヨブは多くの苦しみを経験し、なぜこれほど多くの悪と苦しみが自分に降りかかったのかと、神様に問いました。ヨブ記1章には、神様と悪魔とのやりとりが記されているので、私達はその理由がわかるのですが、神様はこのことについてヨブには何一つ語りませんでした。神様がヨブに語ったことは、「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは」(ヨブ38:12)でした。ある英訳聖書では、「ほとんど知らないのに、なぜそんなにしゃべるのか」と訳されています。そして、「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら理解していることを言ってみよ」(神様はヨブ記38:4)と付け加えられました。つまり、神様はヨブに対して、「お前は何も知らないのに、あれこれと私に言っている」と言われたわけです。ヨブは、本当にその通りだと思わされました。ヨブは神様から答えをもらえませんでしたが、神様が自分の前に現れてくださったこと、そして、自分は神様がなさることを何も知らないという事実を理解させてくださったことで、満足することができたのでした。

 

【火・懐疑的な有神論者】

 

イザヤ55:89「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」

 

私達は神様がなさることに関して、知らないことがあまりにも多いのは、神様の思いが私達の思いをはるかに高く超えているからです。私達の思いも及ばないことを、神様は常に考えておられるのです。「懐疑的有神論」と呼ばれものがありますが、これは神様の行動には正当な理由があると信じるものの、私たちの知識が限られているため、その理由がどういうものであるかを知る立場にないというものです。しかし、全く知りえないのか、あるいは知ることは許されていないのかといえば、そうとも言えません。ローマ122に、「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」とあるように、私達は神様の御心がなんであるかを、わきまえ知る(慎重に探る)必要があるのです。そのために聖書が与えられており、また聖霊が働いて私達の思いが神様の思いと一つになるように導いてくださいます。たとえば、なぜ悪人が栄えるのかとの疑問に対して、聖書は次のように答えを記しています。詩編7317~「ついに、わたしは神の聖所を訪れ、彼らの行く末を見分けた。あなたが滑りやすい道を彼らに対して備え、彼らを迷いに落とされるのを。彼らを一瞬のうちに荒廃に落とし、災難によって滅ぼし尽くされるのを・・・」

 

水・自由意志弁護論

 

悪は、神様が私たちに与えてくださった自由意志を、被造物が悪用した結果によってもたらされました。神様には責任がありません。このような考え方を、自由意志弁護論と言います。しかし、なぜ神様はそのような自由意志をお与えになったのでしょうか。この点に関して、CS・ルイスは、「自由意志は悪を可能にするが、同時に、持つべき価値のある愛や善や喜びをも可能にする唯一のものである。機械人形の世界(機械のように動く被造物の世界)など、創造する価値がないだろう。神が高等な被造物のために意図された幸福は、自由に、自発的に、神や被造物同士と互いに結ばれる幸福である...そのために、彼らは自由でなければならない」(『キリスト教の精髄』52ページ、英文)と言っています。神様はプログラミングされたロボットのようにではなく、自由意志で愛を生きてほしいと願われたのです。しかし、ただ一つだけ、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記21617節)と言われました。これは神様への忠誠を試すためでした。しかし、残念ながら悪魔は、人間に与えられたこの自由意志を利用して人を誘惑し、この世界に罪をもたらしたのです。これは自由意志の御用でしたが、同時に、神様への忠誠よりも、自分の思いが勝ってしまった結果でした。

 

【木・愛と悪】

 

人間に自由意志を与えれば、悪が発生する可能性があること神様はご存じでした。しかし、自由意志がなければ、真の愛もありません。悪の可能性を排除すること、すなわち自由意志を与えないことは、愛を排除することになってしまうのでした。神様は愛です。悪の発生の可能性があったとしても、真の愛を排除するという選択肢はなかったのです。では、悪を排除すれば良いではないかという疑問もあることでしょう。いずれ悪が滅ぼされるときは来ます。しかし、宇宙規模で起きている善と悪との大闘争の中で、神様のご計画では、この地上において悪の本性があきらかにされ、また、それを通して神様の愛が全宇宙にしめされてから、悪は完全に滅ぼされます。それまでは私達も悪との闘いに巻き込まれており、苦難の中を通らされることでしょう。しかし、ローマ8:18によれば、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足」らないと約束されています。

 


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