2024年安息日学校ガイド第4期 「ヨハネによる福音書」 |
2025年1期8 課 「自由意志、愛、神の摂理」
【日・私たちの主権者なる神】
時として人は、世の中で起こることはすべて神様が望んでいるとおりに起こると考えています。すると、どんなに悪いことが起ころうと、それも神様のご意思ということになります。しかし、果たしてそうなのでしょうか。聖書は、繰り返し、神様の望みが満たされないことがあることを述べています。たとえばイエス様は、「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」(ルカ13章34節)と、民がご自分のもとに来ないことを悲しんでおられます。このことはつまり、主の望み通りにはいっていないということであります。また、詩編81編12、13節では、「しかし、わたしの民はわたしの声を聞かず、イスラエルはわたしを求めなかった。わたしは頑な心の彼らを突き放し、思いのままに歩かせた」とあります。つまり、神様が人間の歩みに介入せず、自由意志に任せられたということです。全知全能の神様は、御自分が望んでおられるように何でも行おうと思えば、行うことができるでしょう。しかし、愛の神様は、人間に自由意志を与えられ、直接介入されないことも多くあることがわかります。
【月・パントクラトール】
黙示録11章17節 「今おられ、かつておられた方、全能者である神、主よ、感謝いたします。大いなる力を振るって統治されたからです」
「全能者」と訳されているギリシャ語の「パントクラトール」は、「全能の、全権を有する」という意味の言葉です。エレミヤ32章17節に、「ああ、主なる神よ、あなたは大いなる力を振るい、腕を伸ばして天と地を造られました。あなたの御力の及ばない事は何一つありません」とある通りです。ただし、それは論理的に可能で、神様のご性質と一致することに限られます。何でもお出来になるからといって、神様のご性質に一致しないことは、当然のことながらなさいません。また矛盾を伴うためにできないということもあります。たとえば、ゲツセマネの祈りの中で、イエス様は、父なる神様に、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(マタイ26:39)と祈られました。父なる神様はイエス様を十字架の苦しみから解放する力を持っておられましたが、そうすれば罪人を救うことができなくなってしまいます。だから、イエス様を十字架の苦しみから解放することはおできにならなかったのです。
【火・神を愛すること】
イエスは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マタイ 22章37節)と言われました。私達が神様を愛することによってもたらされる祝福と喜びは、限りなく素晴らしいものです。そして、私達を愛しておられる神様は、ご自分のことも、私達に愛してほしいと願っておられるのがわかります。
ところで、偽ることのない神様は、永遠の昔に、永遠の命の希望を約束して下さいました(テトス1章2節)。これは変わることのない約束であり、このような永遠の約束をしてくださったのは、私達を力強く励ますためだと、ヘブライ6章17、18節に記されています。しかし、神様が何かを約束したり、誓ったりなさったら、人間とは異なり、それを破ることができないので、それは、ご自分の行動を制限することでもあります。それでも、愛の神様は人間を愛し、救うための制限であれば、それはむしろ喜びであったのです。しかし、このような素晴らしい永遠の命の約束にも関わらず、多くの人たちは、私達に与えられている自由意志を、神様を愛することにではなく、逆に神様から離れていくことに使っているのです。このことを神様はどんなお気持ちで見つめておられるのでしょうか。
【水・神の理想的御心と救済的御心】
エフェソ1章9節「秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。」
この世界が創造されたとき、神様には、「秘められた計画」がありました。それは、人間が罪を犯した場合、御子が身代わりとなって死なれ、私達を救って下さるという贖いのご計画です。旧約時代には、動物の犠牲制度の中にそれは現わされていましたが、人々が真にそれを理解したのは、実際に御子が十字架にかかって死なれ、三日目に復活された後のことでした。人間には、本当に測りがたい救いのご計画でした。このご計画は、まだ世界が創造される前に、「キリストにおいてお決めになった神の御心によるもの」でした。ところで、神様がお決めになる(お定めになる)というのは、これからの未来がすでにすべて決まってしまっているということではありません。たとえば、救われる人と救われない人が初めから決められているということではありません。それは、人間が自由意志に基づいて行動するであろうことを予見し、考慮したうえで、将来に向けて救いの計画を神様は考えておられるということを意味しています。神様は、御自分が望んでおられない方向へと多くの人達が進んでいくことを承知しながらも、真の愛の関係に必要な被造物の自由意志を尊重し、その上で、一人でも多くの人たちを、ご自分が望まれる良い結末へと摂理的に導こうとされたのです。
【木・キリストはこの世に勝たれた】
ヨハネ16章33節「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
神様が人間に自由意志を与えられた以上、この世界で起こることは、人間の自由意志の結果ひき起こされることがたくさんあるということです。その多くが、神様の御心とは正反対の罪の影響下で起こりますから、数えきれないほどの悲劇が起こってきたのです。それでもなお、そのような罪の世界に神様が介入されるとき、それは速やかに、圧倒的な形で起こります。そのとき、私達は人間がいかに無力なものであるかを思い知らされるのです。イエス様は、「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と言われました。ですから、どれだけこの世界が罪の中にあり、人間に与えられた自由意志が悪のほうに向かって行ったとしても、そのことで神様が何も手出しできなくなってしまうようなことはなく、ほんのわずかでも神様の御心が妨げられることもありません。このことを私達は忘れてはなりません。
また、「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」とイエス様は言われたわけですが、「あなたは世に勝っている」ではなく、「わたしは既に世に勝っている」と言われたことが重要です。「あなたは世に勝利しているから心配ない」というのならわかるのですが、わたしが勝っているのではないのです。つまり、苦難に対する勝利は、キリストとの関係の中で得ることができるということです。
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