2025年安息日学校ガイド第1期
 「神の愛と正義」

 

2025年1期9課 「宇宙的対立」

 

【日・「敵の仕業だ」】

 

マタイ132426 「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。」

イエス様は、天国を、「ある人が良い種を蒔いた畑」に例えられました。なるほど、天国は良い麦が豊かに実るような、そんな素晴らしい世界であることを想像させます。ところが、このたとえ話のポイントは、その後にやってきます。何と、この天の国に例えられているところの畑に、敵がやすやすと侵入し、そこに毒麦の種を蒔くのです。それは天の国に生きる人々が眠っている間のことだったと主は言われました。そして、実りの季節を迎えるまでは、そのことに誰も気が付きませんでした。そのため、実際に実りの季節を迎えたとき、良い麦に混ざって毒麦も現れると、僕たちはひどく驚き、主人に、『どこから毒麦が入ったのでしょう』と問うたのでした。その問いに対して、主人は、『敵の仕業だ』(マタイ1328)と言います。このたとえ話は、非常に緊迫感があり、恐ろしささえ感じさせられます。イエス様は、すぐに、このたとえ話の意味を弟子たちに教えられます。「良い種を蒔く者」とはイエス様ご自身のこと、「畑」とはこの世界、「良い種」は御国の子らと説明されました。イエス様は人の子として地上に来られ、福音の種を蒔き、御国にふさわしい神の子らが世界中に広がっていきました。しかし、そこに敵が来て毒麦の種を蒔くのです。「毒麦を蒔いた敵」とは、「悪魔」のことであり、「毒麦」は悪い者の子らであると教えられました (マタイ13:39)。このたとえ話を通して、イエス様は、この世界は神と悪魔との闘いの中にあることをはっきりと示されたのでした。唯一、希望なのは、「毒麦を抜かないで、刈り入れまで、そのままにしておきなさい」と言われたことでした。刈り入れの時とは、世の終わりのことです。つまり、最後の瞬間まで、神様はその愛のゆえに、人々が悔い改めるのを待っておられるということです。

 

【月・地上における争闘の起源】

 

神様がこの世界を創造されたとき、「それは極めて良かった」(創世記131)とあるように、そこは悪が一切存在しない世界でした。悪は外から持ち込まれたのです。イエス様がたとえ話の中で、天国のように素晴らしかったこの世界に、悪魔が「毒麦の種を蒔いた」と言われたように、蛇の姿をとった悪魔がエバに忍び寄り、神様の教えに反する教えを巧みに吹き込むことによって、毒麦の種が蒔かれたのでした。毒麦の毒は、人間の心を、命の源である神様から引き離すことによって、人間を死に至らしめるのでした。誰も死を望んでいる者などいませんが、悪魔は人間の深層にある欲望に乗じて誘惑してくるので、それに勝利するのは容易なことではないのです。それに加えて、悪魔は単に私達を誘惑するだけでなく、エバに対して、「決して死ぬことはない」と神様の教えとは異なる嘘を織り交ぜてきたように、私達に対しても、み言葉の教えを都合よく解釈したり、軽く考えたりするような嘘をささやいてきます。み言葉を都合よく解釈しないように、十分気を付けなければなりません。

 

【火・天における争闘の起源】

 

この世界が創造される前から、悪は存在していました。言い換えると、悪魔は存在していました。では悪魔とは、いったいどのような存在なのでしょうか。エゼキエル書28章に、いくつかのことが記されていますが、それによると、悪魔は、もともと天においてルシファー(金星という意味)と呼ばれるほど、「知恵に満ち、美しさの極み」(エゼキエル2812)であり、「翼を広げて覆うケルブとして造」られました(同14)。ケルブとは特別な天使のことで、複数形がケルビムとなりますが、十戒を入れた契約の箱の蓋(贖いの座)の両端に一対のケルビムの作り物が置かれたことでも知られています。そのような特別な存在として創造された天使だったのです。それなのに、いや、その特別な存在であるがゆえに、ルシファーの中に、「不正が見いだされる」(同15)ようになるのです。その不正とは、高慢(同17)でした。イザヤ141314に、「わたしは天に上り王座を神の星よりも高く据え、神々の集う北の果ての山に座し、雲の頂に登って、いと高き者のようになろう」とルシファーの思いが記されています。悪の根源とは神のようになりたいという高慢な思いなのです。その結果、これ以上天にいることを許されず、地に投げ落とされます(同12、エゼキエル2817)。サタンがエデンの園にいた理由が、ここからわかります。また、このとき天使の1/3がサタンに共鳴して堕落し、一緒に地に投げ落とされました。これが悪霊の正体です。

 

水・「もしわたしを拝むなら」

 

イエス様と悪魔が直接戦う場面がマタイ4章に登場します。それはまず、「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」(41)といって始まります。悪魔との対決に導いたのは聖霊でした。そして、その戦いとは血肉を争うような戦いではなく、悪魔から誘惑を受け、それに勝利するための戦いでした。ところで、なぜ聖霊はイエス様が悪魔からの誘惑を受けるように導かれたのでしょうか。それはアダムとエバが悪魔の誘惑に負けたことによって、悪がこの世界に入り込んだため、第二のアダムとしてイエス様は悪魔の誘惑に勝利しなければならなかったからです。悪魔の誘惑を受ける前に、イエス様は40日にも及ぶ断食祈祷をささげて霊的闘いに備えました。断食により、心身ともに疲れ果て、最も弱くなったとき、悪魔が近づいてきました。そして三つのことを誘惑してきたのです。①石をパンに変える誘惑。これは肉欲の誘惑であり、また神様の力を自分のために使うという誘惑でした。悪魔は私達の弱い部分に付け込んできます。②高い塔から飛び降りて、天使が自分のことを守るかどうかを確かめる誘惑。これは神様の愛を試みる誘惑でした。悪魔は神様の愛を疑わせます。③悪魔を拝むことで、この世の富と栄華を手に入れる誘惑でした。今日、どれほど多くの人達が、この誘惑に屈しているでしょうか。どの誘惑も、私達誰もが経験するものです。イエス様はすべての誘惑に対して、「み言葉にはこう書いてある」と言って反論し、すべての誘惑に勝利しました。すると、悪魔はイエス様から離れ去って行ったのでした。

 

【木・宇宙的対立の本質】

 

神様と悪魔との宇宙的対立の本質は、神様のご性質をめぐる争いでした。悪魔は、神様は善良で愛に満ちたお方などではなく、恐ろしい方であると主張しています。このような中傷的な主張は、力や暴力によって退けることはできません。もし、神様が圧倒的な力で悪魔を滅ぼせば、悪魔は自分の命をもって、自分の主張の正しさを証明することになったことでしょう。

「罪を取り扱うにあたって、神は義と真実だけをお用いになることができた。サタンは...神の統治の計画を天使たちの前に偽って伝え、神が天の住民のために律法と規則を定められたのは正しくない、また神が被造物から服従と従順とを要求されるのは、ただ神がご自身を高めるためであると主張した。そこで神の統治が正しく、神の律法が完全であることが実証されねばならなかった…この横領者の本性を、すべての者にわからせねばならなかった。彼がその邪悪な業によって本性を暴露するまで、時間を与えねばならなかった」(『希望への光』1839ページ、『各時代の大争闘』第29)

イエス様は悪魔を、「偽り者」(ヨハネ8:44)と呼んでいます。悪魔は、神様の愛と義を疑わせます。それゆえ、神様は愛と義をもって悪魔の偽りを暴き、勝利しなければならないのです。その方法こそ、イエス様の十字架だったのです。また、悪魔の本性が明らかになるために、時間が必要でした。このことも、神様が悪魔をすぐに滅ぼさなかった理由の一つです。終わりの時が近づくにつれ、ますます悪魔の本性が明らかになることでしょう。しかし、恐れる必要はありません。そのとき、信じる者たちの上に、神様の愛が力強く現わされるからです。

 

 


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