2025年安息日学校ガイド第2期
 「聖書の預言の学び方」

2025年2期10課「時の終わりに直面している者たち」

【今週のテーマ】

今週は、時の終わりに直面し、すべてのものが神の裁きのみ座の前に立たなければならない事実と、それに先立って一人ひとりが調査されること、そして神の正しさがどのような形で表れていくのかを学びます。

 

【日・小羊の怒り】

 

黙示録6章12節を見ると、小羊が第六の封印を解いたとき、大地震が起きて、太陽は暗くなり、月は血のようになって、天の星は地上に落ちます。また、天は巻物が巻き取られるように消え去り、山も島も、みなその場所から移されるようなことが起こります。救われず地上に残された者たちは、隠れるほかなく、「わたしたちの上に覆いかぶさって、玉座に座っておられる方の顔と小羊の怒りから、わたしたちをかくまってくれ」(16節)と言うと書かれています。この言葉から、彼らはそのとき何が起きているのかを理解していることがわかります。それは神の怒り、小羊なるキリストの怒りであります。なぜ彼らはそれがわかるのでしょうか。それは、福音、そして三天使のメッセージが地上のあらゆる民に伝えられ(マタ24:14)ているからです。しかし、彼らはそれを信じて従うことを拒否したため、救いから漏れてしまったのだということをそのとき理解するのです。キリストは、「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである」(マタイ24:37~39)と言われました。ノアの洪水は全く思いもしなかったことが突然起こったのではありませんでした。それはノアを通して120年もの間、ずっと語り続けられてきたのでした。しかし、人々はそれを信じず、終わりに備えることなく、いつもと変わらない生活をしていたのです。そのような人々にとって、終わりの時は突如襲ってきたように感じることでしょう。しかし、それが来ることは初めから知っていたのです。終わりの時もこれと同じような状況となるのです。

 

【月・ノアの伝道】

 

ノアの洪水の物語は、クリスチャンでなくても知っています。しかし、それが本当にあった出来事であると理解している人はどれほどいるでしょうか。もしノアの洪水を本気で信じているなら、主のご再臨に対しても、本気で備えるはずです。なぜなら、「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである」とはっきり語られているからです。ノアの箱舟の戸が閉じられたあと、洪水が襲ってきて、多くの人が戸を開けて箱舟の中に入りたいと願いましたが、閉じられた戸が開かれることはありませんでした。同じように、恩恵期間が終わり、恵みの戸が閉じられたなら、それでおしまいです。10人のおとめのたとえ話で、『用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやに入り、そして戸が閉められた』という言葉がまもなく成就されるのです。しかし、今はまだ恵の戸は開かれています。ノアの時代の人々は、「常に悪いことばかりを心に思い計り、主は地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められ」(創世記6:5,6)るほどでしたので、そのような人々に伝道するのは、本当に大変なことだったでしょう。ノアは結局家族しか救えませんでしたが、それでも最後まであきらめず、120年間伝道を続けました。同じように、私たちも最後の一瞬まで伝道を続け、終わりの時が近づいていることを述べ伝えなければなりません。

 

【火・ソドムとゴモラの物語】

 

ペトロは終末時代の諸事件を説明するために、ノアの洪水と共に、ソドムとゴモラの滅亡の話にも言及しています。町が滅亡したのは、そこに住む人々が堕落した生活を送っていたからだとはっきり述べられています。

「汚れた情欲の赴くままに肉に従って歩み…厚かましく、わがままで、栄光ある者たちをそしってはばかりません」(ペトロ二210節)。「ソドムやゴモラ、またその周辺の町は・・・みだらな行いにふけり、不自然な肉の欲の満足を追い求めた」(ユダ7節)。「お前の妹ソドムの罪はこれである。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き安閑と暮らしていながら、貧しい者、乏しい者を助けようとしなかった」(エゼキエル1649節)。ソドムとゴモラの人々は、他の国の人々に比べて、あるいは他の時代の人々に特別に堕落していたのでしょうか。決してそうではありません。キリストは、「しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである」(マタイ1124節)と述べています。また、「これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」(Iコリント10:1112)とあります。したがって、私たちは聖書の中に記されている神の裁きを単なる物語として読むのではなく、これから起こることの警告として書かれているのだと意識的に読む必要があります。黙示録2015に、「その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた」ということが、自分の身に起こることのないように、このような過去の出来事から学ばなければならないのです。

 

【水・全世界を裁くお方】

 

ソドムが滅亡する直前、マムレの平原で不思議なことが起こります。それは、神が2人の天使を伴って、アブラハムの前に姿をあらわされ、預言者アモスが、「まことに、主なる神はその定められたことを僕なる預言者に示さずには何事もなされない」(アモ3:7)と語っているように、これからソドムで起ころうとしていることを告げるのです。それに先立ち、2人の天使がソドムの町の人々を調べ、警告に従う人々を呼び出すために町へ行きます。終末時代、バビロンに象徴される廃退した世界に住む神の民に、そこから出て来なさいと呼びかける天使たちを連想させます。その後、アブラハムは主に、「正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません…全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか」(18:25)と訴えます。これは神のご品性に対する問いかけであります。つまり、ソドムの人々だけが調べられたのではなく、神ご自身も調べられたということです。また、このことは千年期の間(再臨後天国で千年暮らす)、神が天の書物を開いて(20:411~15)、最終的に地上に火を降らせる前に、救われた者たちが、なぜ他の人々は救われなかったのかを調べ、神が正しかったことを知ることが許されることを暗示しています。「わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた・・・彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した」(黙示録204)。今はまだ答えられていない多くの疑問が解消されるために、私たちには1000年〔千年期〕という期間があるのです。

 

【木・再臨前審判】

 

私達は神様の裁きのみ座の前に立つ時が来ます。コヘレト12:14 は、「神は...一切の業を...裁きの座に引き出されるであろう」と断言し、パウロは、「わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです」(ロマ14:10)と言っています。ソドムの裁きでは、それに先立って天使に実態を調査させましたが、同様に、世の終わりに先立って、神は人類を調査します。これが再臨前審判です。ダニエル7章910節にその光景が描かれています。

「なお見ていると、王座が据えられ、「日の老いたる者」がそこに座した。その衣は雪のように白く、その白髪は清らかな羊の毛のようであった。その王座は燃える炎、その車輪は燃える火その前から火の川が流れ出ていた。幾千人が御前に仕え、幾万人が御前に立った。裁き主は席に着き、巻物が繰り広げられた。」

実に厳粛な光景です。誰もこの神の裁きの座からのがれることはできません。しかし、ソドムのときに、天使にソドムの人々を調べさせただけでなく、神の正しさをアブラハムに調べさせることも許されました。この神の正しさは、やがて御子の贖いに結びついていきます。ダニエル71314に、「夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り、「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた」とあります。御子イエス・キリストは神の子らが裁きのみ座の前に立つとき、一人ひとりの横に立ち、ご自分の命をもって弁護してくださるのです。

「わたしは、地上でなすべき働きを持っていた四人の天使たちが、その働きを成し遂げる途中にあるのを見た。イエスは祭司の衣をまとっておられた。彼はあわれみの情をもって残りの民をごらんになった。それから、両手をあげて、深いあわれみのこもった声で、「わたしの血、父よ、わたしの血、わたしの血、わたしの血! 」と叫ばれた。すると、白い大きなみ座に座っておられる神から、非常に輝かしい光がでてきて、イエスのまわり一面を照らすのを、わたしは見た。それから、イエスからの任務を帯びた一人の天使が、地上でなすべき働きを持っていた四人の天使たちの所に、速やかに飛んでいって、手に持った何かを上下に振って、大声で、「神のしもべたちの額に印が押されるまで、待て、待て、待て! 」と叫ぶのを私は見た。」初代文集P99

 


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