2025年安息日学校ガイド第2期
 「聖書の預言の学び方」

2025年2期11課「ルツとエステル」

【今週のテーマ】

今週はルツ記とエステル記から預言を学びます。

 

【日・「パンの家」の飢饉】

 

士師が世を治めていたころ、飢饉が国を襲います。そこでエリメレクは妻のナオミと二人の息子を連れて、皮肉にもパンの家を意味するベツレヘムから異邦の地モアブに移り住むことになります。ところが、その後、エリメレクはナオミと二人の息子を残して死んでしまい、また二人の息子もモアブの娘と結婚をしますが、10年ほどの間に二人とも死んでしまうのです。不幸に不幸が重なり、残されたナオミと二人の嫁はどれほど深い悲しみに暮れたことでしょう。このような不幸が続くと、神様がおられるのに、なぜ?と問いかけたくなったり、中には信仰を失ってしまいそうになる人もいるかもしれません。私たちはすべての物事の理由を知ることはできません。ただ一つわかることは、人間が神に反逆した結果、私たちはいま、本来神様が人間の幸福のために用意してくださった世界ではなく、サタンが支配する罪の世界の中に生きているということです。そして、善と悪との闘いの中に生きているのです。確かに、地球は今も多くのものを生み出し、神の愛を力強く証ししています。しかし同時に、その世界は時として、私たちに襲い掛かってくるのです。それでも、いつの日か、この罪の世が終わり、愛と平和の世界が始まると聖書は約束しています。

 

【月・ルツとボアズ】

 

ナオミという名前は快いという意味がありました。しかし、このようなあまりにも辛い経験により、故郷ベツレヘムに戻ってきたとき、「私をナオミなどと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです」(ルツ記120)と言うほどでした。マラとは、苦しみという意味で、ナオミの辛い気持ちが伝わってきます。さて、故郷に戻っても、畑を耕す土地もなく、ナオミとルツの二人の女やもめは、どう生きれば良いのでしょうか。ルツは落穂を拾いに行きます。当時、貧しい人のために、麦の収穫のとき、落ちた穂を拾う権利が法的に認められていました。19世紀のフランス人画家ミレーは、有名な「落ち穂拾い」という絵を描いていますが、このルツの物語が背景にあったと言われています。そして、この貧しい女性が落穂を拾っても良いという習慣が、キリスト教的背景の中で、数千年にもわたって残されてきたというのは実に感動的なことです。また、麦の落穂は、収穫の時に自然に落ちてしまうものもありましたが、そのような貧しい女性のためにわざと落とすこともあったようです。ところでルツが落穂を拾った畑は、たまたま亡き義父の親戚ボアズの畑で、そのボアズの目にルツの姿がとまります。そして、ルツに優しくしてあげるのでした。ボアズは、夫が亡くなった後もナオミに仕え、両親と生まれ故郷を捨ててまで、全く見も知らぬナオミと亡き夫の故郷までやってきたことを伝え聞いていました。そのようなルツの優しさに、ボアズは心動かされるものがあったのでしょう。

 

【火・救い主としてのボアズ】

 

やがて、ボアズはルツを妻とするのですが、その際、誠実なボアズは、正当な手続きを経てルツをめとります。それは、ボアズよりも責任がある親類に、まずナオミとルツのことを伝え、ナオミの亡き夫エリメレクの所有地を買い戻して、ルツともども面倒を見るかどうかを尋ねるのです。しかし、その人は、「私には自分のために、その土地を買い戻すことはできません。私自身の相続地をそこなうことになるといけませんから」(46節)といって、2番目に責任があったボアズに委ねます。ボアズにとっても簡単なことではありませんでしたが、ナオミとルツのために土地を買い戻し、またルツを妻としたのでした。新共同訳では、「ルツも引き取って妻とします」(410)と訳されていますが、正確な訳は、「ルツを買い取った」です。このボアズの姿はまさに、私たちを贖ってくださったキリストを象徴しており、ルツは教会を象徴しています。ところで、故エリメレクの土地とルツに対する権利を持っていた先の近親者は、サタンの権利を象徴しているのではないかとガイドの著者は書いていました。モーセの遺体をめぐってキリストと言い争ったように、サタンは神の子たちをも、自分のものだと訴えてくるのです。しかし、サタンは命を捨ててまで、私たちを買い取ろうとはしません。サタンは、本当の愛を知らないからです。

 

【水・ハマンとサタン】

 

エステル記にハマンというペルシア王クセルクセス1世の宰相(さいしょう・最も位の高い大臣)が登場します。彼は、エステルの義父であったユダヤ人モルデカイが、自分にひれ伏すことを拒んだことで腹を立て、帝国内のユダヤ人を全員殺害しようと企てます。ハマンの中には高ぶりの心があり、それはまさにサタンの精神でありました。黙示録を見ると、最後の時、誰を拝むのかが争点となっていくことがわかります。創造主なる神を拝むのか。それとも、獣に象徴されるところのものを通してサタンを拝むのか。黙示録1315節に、「第二の獣は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものを言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた」とあります。真の神を拝み、サタンに膝をかがめなかったものたちは迫害されることが預言されているわけです。真の信仰が試されます。では獣とは誰をさすのでしょうか。黙示録が書かれた当時はネロやドミティアヌス皇帝に当てはめたことでしょう。また私たちはローマ法王とアメリカに当てはめてきました。その他にも、マホメットやルター、ナポレオン、ヒットラーなど、様々な解釈が存在しています。共通していることは、それは政治的力と宗教的力が合わさった巨大権力であり、その背後には常にサタンがいるということです。真の神を拝むのか、それともサタンを拝むのか。結局のところ、獣が何であれ、そこが重要なのです。

 

【木・この時のためにこそ】

 

ハマンがユダヤ人を皆殺しにしようと企んでいるその裏で、すべてをご存じである神は、神の民を救うために介入されます。それはこのような問題が起こる前からすでに始まっていました。ハマンに意見することができるのは王クセルクセスのみでした。これから何が起こるかをすでにご存じであった神は、王の新しい王妃として、なんとユダヤ人のエステルが選ばれるように導かれていたのです。エステルはモルデカイのいとこで、彼女の両親が亡くなった後、モルデカイは自分の娘として引き取り育ててきたのでした。モルデカイはエステルに、「この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか」(エステル414節)と、王に助けをこうように頼みます。しかし、エステルは王妃とはいえ、前の王妃が王の機嫌を損ねた結果、どのような目にあったかを知っていました。妻だからといって、王に何でもいえる立場にあったわけではなかったのです。エステルは、「ユダヤ人を集め、私のために三日三晩断食し、飲食を一切断ってください。私も女官たちと共に、同じように断食いたします。このようにしてから、定めに反することではありますが、私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります」(同16節)と答えます。そして、見事ハマンの企みに対して王の助けを得ることに成功するのです。私たちは終わりの時代に生き、やがて獣を拝むように強要される時が来るでしょう。それを拒むなら、命に危険が及ぶかもしれません。そのような状況にあって、エステルが命をかけて王に窮状を訴えたように、私たちも神に助けを訴えながら、三天使のメッセージ、すなわち真の福音を伝えなければなりません。初めからエステルが備えられていたように、そのために主は多くの働き手を備えて下さることでしょう。


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